一匹のえびから
私事で大変恐縮なのですが、バカンス先のクロアチアはラブという島にある、早起きして行った魚市場でのことです。目の前で飛び跳ねる新鮮な手長えびに遭遇した瞬間、買い物に同伴していたイタリア人の友人Sに弾んだ声で「これで何を作る?」と尋ねました。自他称共にグルメのSは「君だったら?」と逆にアイデアを求めてきました。寝苦しかった前夜のことを思い出しながら「そうね、私だったら思いっきり辛い料理を作って暑さを吹き飛ばすだろうな」「例えば?」「例えばタイ料理ならばしょうがとにんにく、そして唐辛子をたっぷりきかせたサラダ、ヤム・クンとか、グアドループ島に行った時に食べたぴり辛のブイヨンで軽く煮たえび料理とか、でなければココナツミルクを加えて辛さをほぐしたマレーシア風えびカレーとか、和風にするならわさびをきゅっときかせたお刺身でしょう、でなきゃさっとゆがいて山椒としょうがでぴりっとしめた酢物とか…」「ふーん、美味しそうだけれど僕は辛いのはあまり得意じゃない。仕事で行ったハンガリーでは唐辛子が原料のパプリカをたくさん使っていたけれど、あれなら色のわりにはちっとも辛くないから平気」「ここクロアチアでも使われているみたい、レストランにグラッシュがあったわ」「パプリカは僕の故郷の北イタリアでも煮込み料理に時々使われるよ」「ところで北イタリアには辛い料理って存在するのかしら?」「南とは違うからね、ヴェネチアではホースラディッシュ(わさび大根)をすりおろして酢と砂糖、生クリームにまぜたソースを肉料理に付けるけれど、肉の味がひきしまるだけで辛くはない」「ホースラディッシュといえば、東欧でもよく食べるよね、東欧出身のユダヤ人の料理には欠かせない、マスタードとかピクルスのようにね」「同じユダヤ人でもスペインを追われたセファルディードたちは北アフリカにたどり着いて別の香辛料を料理に取り入れていった」「クミンやコリアンダー、キャラウェー、ミントなどを入れた唐辛子ペースト、ハリサのように?」「ハリサといえば、アメリカ人の友達がタバスコよりも美味しいって大量に買い込んでた」「アメリカ大陸の辛味の決めてはやっぱり唐辛子?」「確かにメキシコのチリ・コン・カルネとかブラジルのフェジョアダなんて口が燃えるような料理にはすべて唐辛子が使われている」「口が燃える、なんて大げさね、だったらSには唐辛子の粉に似ているスマックっていう別の植物の赤い実をつぶした香辛料がいいかもね、トルコで食べたことがあるけれど、酸味と辛味が混ざって新鮮だった」「ここで僕らにアパートを貸してくれている大家は船乗りでね、セネガル出身の船員と一緒にバンコクに立ち寄った、どうしてもと誘われて食べたスープを一口食べた瞬間、大家は椅子から飛び上がっちゃうほどの辛さに汗がどーっと噴出してくるのを感じた、でも同僚の船員は涼しい顔をして手をあげてなにやら頼んでいる、するとどんぶりに盛られて生唐辛子が運ばれてきた、同僚は唐辛子を大きな手でわしづかみにすると、自分のスープの椀にほおり込み、美味しそうに最後の一滴まですすったんだって…これって習慣と食文化の違いだよね」…と話に花を咲かせている間に、目の前に詰まれていたえびたちはいつの間にか売りさばかれ、私たちは手ぶらで魚市場を後にしました…家で私たちの帰りを待っていた家族の残念そうな顔ったら…その夜は、新鮮なえびを安く食べられるレストランに足を運び、朝のうっぷん晴らしをしたことは言うまでもありません。でも、塩焼きされてオリーヴオイルとレモンで食べるえびは美味しいけれどちっとも辛くなくて、朝の会話を思い出しながら少しだけがっかりしました。 (海)