カルト教団が無差別殺人事件を引き起こし、実行犯も殺害されて3年。加害者の遺族4人は今年も山間の湖へ弔いに向かう。そこで彼らは事件直前に脱走した元 信徒の青年と出会い一晩を共にする。
生きる者/死んだ者、信仰を持つ者/持たぬ者。人と人の間に漂う不安定な〈距離〉の形を見据え、魂の振動にまで耳をすます。他人との距離を直視することの痛みと前進。傑作『After Lifeワンダフルライフ』に続く是枝監督待望の新作。
オウム事件を彷佛させる内容ですが、なぜ今このテーマを取りあげたのですか?
—あの事件は僕と同世代がたくさん関っていて気になっていたが、時が経ち、ようやく機が熟したという感じがあった。これは事件の内容について伝えようとしているのではなく、事件をきっかけに、残された、信仰を持たぬ人間がどう生きていくかについての物話。世界的に信仰というものが揺らいでいる中で、誰にとっても切実な問題だと思っている。
台詞が非常にリアルでしたが…。
—資料を読み裁判にも行ったけれど映画には使っていない。それならドキュメンタリーの方が強いから。今回は役者たちが自分の内側に問いかけ出てきた表現を大切にした。例えば、浅野忠信くんには〈その場その場で自己正当化し逃げる奴〉と説明し、ほとんど台詞も用意しなかった。そしたら彼が「僕の役は一貫性がなくていいんですね。僕も普段、『これは好き?』と聞かれて本当は嫌いなのに相手に合わせ、『いいですよね』とか言ってしまうけど、そういうことでいいですね?」って聞くから「そうですよ」と。
監督の作品はいつも死が絡んでくるのに、後ろ向きとは違いますね。
—そう、僕はいつも死に接した人がどう生きていくかの話にしているつもり。だけどいつもモチーフに死とか記憶とかが出てくるのでヨーロッパでは〈死と記憶の作家〉とかいわれる。勘弁してほしい!そろそろ違う作品も作ろうかとも思ってる。誰も死なない話とかね。(笑)(瑞)
*本作はフランスで2月27日公開
●Michka
バカンスに行く途中で一人息子とその家族から置き去りにされた老人が、路頭に迷い、収容された老人ホームの看護夫(監督自身が演じる)とホームを脱出し、看護夫の娘を訪ねるという名目で旅に出る。途中、家出娘とその幼い弟、ジプシー娘が加わり、ミシュカというあだ名をもらった老人を中心にしたグループは、まるで本物の家族のように旅を続ける。監督としてはPasse-montagne(1978)、Double messieurs(1986)と寡作だが、性格俳優としてジャン=フランソワ・ステヴナンは多くの作品に出演してきた。ステヴナンの作品にはこだわりを捨てた自由さがある。「なぜ?」「だから…」と説明を求めるほうが野暮かもしれない。説明なんていらない、思いのままに生きる彼らから、自然で自由な空気を感じとるだけで十分だ。それぞれが家族=愛を探し求め、最後は望もうと望まなくとも本当の家族に出会い、喜んだり失望したりする。新しい出会いや恋もある。そして別れを前にミシュカと一緒に過ごした数日間を思い、目の前に広がる海のようなしょっぱい気分になる。(海)
●Lundi matin
起床から就寝まで、毎日同じ動作を繰り返し生きている中年男。月曜の朝の憂鬱、とでもいうのだろうか。ある朝男はすべてを捨てて旅に出ることを決意し、ヴェネチアへたどり着く。オタール・イオセリアーニの新作には、相変わらずボヘミアンの楽観と詩が詰まっている。タチの作品に似ているところもあるが、イオセリアーニにはもっと古き良き時代へのノスタルジーが感じられる。(海)