MAI 68 反体制文化の饗宴!
MAI 68 UNE CONTRE-CULTURE FESTIVE !
インタビュー : Diana FOURNIER・文責 : Gack CASSIO
あの春の経験はフランスだけで語られるものではない。MAI68は世界の秩序を揺るがし、社会全体に問題を提起をした。メキシコ、ワルシャワでは学生達がデモに立ち上がり、プラハの春はロシアの戦車の下敷きになり、パレスチナでは軍の反乱が始まり…さらに人々の脳裏には第二次大戦、ベトナム戦争、そしてフランスには62年のアルジェリア戦争の記憶が残っていた。68年、情勢は緊迫していた!
ジャン-ルイ・マンディビュールはMAI68のことを大きなお祭りのように覚えている。当時ソルボンヌの社会学部に在籍、かつUNEF(全国フランス学生連盟)の活動的メンバーとして運動に参加した彼は、ある種のノスタルジーを見せながら語ってくれた。
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68年にフランス人学生は、実際にかなり政治的だったのですか?
−ナンテール大学は65年に出来ましたが、何もない小さな大学でした。開校当初からベトナム反戦運動の集会が行われていました。そして私は65年にソルボンヌに入学しました。UNEFはアルジェリアの独立を支援している大きな運動体でした。UNEFの幹部は皆、共産党学生連盟に参加していました。66年、共
学連がアラン・クリヴィーヌの革命的共産主義青年連盟(JCR)をはじめとして、いくつかのグループに分裂したとき、私はどちらかというとエコール・ノル
マルの毛沢東派寄りでした。そのあとUNEFは大きな役割を果たさなくなって、超過激派が台頭し始めました。ベトナム戦争、アルジェリア戦争の経験から得た精神を継承していたという点で学生たちは政治的だったといえると思います。当時は民族解放の最後のポジティブな段階でした。そして国内では歴史的人物が頭に立つ強い政治権力に私たちはぶつかっていました。ドゴールがいなかったらMAI68は起こらなかったでしょう!
何がきっかけだったのでしょうか?
−はっきりといえるものはありません。全体的な状勢といえるでしょう。ドイツではSDS(西ドイツ左翼の運動体)のリーダー、ルディ・ドゥチケが動き出していました。アメリカではバークレー大学がベトナム反戦運動の舞台になっていました。ラテンアメリカではチェ・ゲバラが反帝国主義を打ち出していました。実際のきっかけとなったのは3月22日の事件でしょう。一連の突発的で制御不可能な出来事は全てそこから始まったのです。
学生の運動が労働者の支援を早くに受けたのはどうしてだと思いますか?
−それにはまず68年の経済的状況を考えなければなりません。「栄光の30年」(1)の終わりに近づいていました。大幅な黒字、消費も順調、失業者も皆無に
近かったのです。けれども労働者は、経済の発展にもかかわらず、自分たちの賃金がインフレの中で沈滞していることを感じていました。当時の政治権力はブルジョア志向だったからなおさらです。労働者階級には社会不安の時期でした。それでも彼らは「社会を変える」ために彼らのところに来た「左の」学生たちに不信を抱いていました。学生の中で労働者階級は4%しかいなかったのです!労働者は働いたことのない学生達を同胞とは思わなかったけれども、私たち学生と一緒になって、グルネルの協定を得ることができました。
そのグルネルの協定がMAI68の唯一の結果だったといえますか?
−いいえ。政治の面ではドゴールの退陣が一番大きな結果です。当時いっていました「アルジェリアの将軍たちも、OAS(2)の将軍も、ヒトラーもできなかったドゴールの退陣を、二十歳の学生達が引き起こしたんだ」と。
当時の共産党の役割は何だったのでしょうか?
−当然、共産党は左翼の学生に不信を抱いていました。1945年以来、20%の得票率を持っていてドゴール派に対抗できる唯一の政党でした。百万人のデモを行ったこともありました。幹部たちがその気になれば大統領官邸を乗っ取ることができたのです。けれども、ソビエト共産党はフランスでドゴールが政治を仕切っていることに不満をもってはいなかったのです。ドゴールがアメリカへの嫌悪を露にしていたからです。一方では、社会党はNATO寄りでしたし。
MAI68は革命と言えるでしょうか?
−いいえ。革命というのはある社会の哲学的、経済的、歴史的な規範を根本から変えるプロセスのことを指すのです。ただいえることは、MAI68は、政治の波を受けた市民文化の運動の一段階だったということです。
現在、高校生が校内の治安維持のために警官を校内にいれるようにデモをしていたり、大学生が大学の設備・機構への不満を露にしていますが、このような運動を見ていると当時のことが懐かしくなりますか?
−今の状況を30年前と比べることはできません。今の若者は失業のことで頭が一杯で、これといった理想がないのです。68年に私たちが告発していたことは今ではその二倍もひどくなっています。これこそ本当の国民の貧困化です!68年のリーダーたちは皆、モンディアリゼーション(世界化)の渦の中にいます。今の知識人たちも最高の利得に走る番犬にすぎません。別の選択肢、別のシステムがあるという考えが根こそぎにされて、今の若者は自分たちの中に閉じこもっているのです。とても残念なことです。68年の5月には本当にお祭りをしたのです!
たしかに死んだ学生もいたし、けが人もたくさん出ました。路上の闘争は激しかった一方で、警官の行動はかなり制約されていました。ナンテールで三時間も突入することもできずに学生達から「CRS-SS」(3)と罵られ、唾をかけられ続けていました。もっとも彼らはその後、バリケードを破ったのですけど。も
しグリモーが警視総監でなかったらもっと死者が出ていたと思います。カルティエラタンでは魂がおもいきり炸裂していました。街は皆のイマジネーションで溢れていました。そして実現可能と信じていたよりよい世界への憧れがありました。けれども今では、共通のユートピアはもうないのです。
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MAI68は共通の大きな夢であったようだ。反体制文化の饗宴のさわり?当時のヌーヴェルオプセルヴァトワール誌にダニエル・コンバンディットが語っている。「バリケードをつくって警察が突入するのを待つことは、お祭りみたいなものです。何ともいえない雰囲気でした。警察が退散していたら素晴らしい歓喜の渦が沸き上がっていたでしょう。地区の開放をみんなで祝っていたでしょう。僕たちはオーケストラを呼ぶことまで考えていました。」この革命もどきのMAI68についてどう締めくくったらいいのだろうか? 悲劇的であり壮快感に包まれていたMAI68。甘やかされ過ぎた子供たちの気まぐれ?
あるいは病んだ社会に投げかけられた警戒の叫び?
訳注
1:”30 glorieuses”: 戦後の経済成長期のことを指す。
2:”Organisation de l’Armee Secrete”: ドゴールのアルジェリア政策に反対していた右翼の秘密軍事組織。
3:CRS(Compagnies Republicaines de Securites)は警察機動隊のこと。SSはナチ親衛隊員。
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“Soixante-huitard”と”Mayen”
Gack CASSIO
「Soixante-huitard」、直訳すると68年世代。Robertの語源辞典の定義は、「68年5月の出来事に参加した人を指す。あるいはその人々の精神を持つ人たちのこと」。最初の使用例は1970年頃、すでに使用されていた「quarante-huitard」という1848年の二月革命に参加した者を指す言葉を文字ってつくられた。「-ard」はドイツ語からとってきた接尾辞で、名詞、形容詞の後について、軽蔑語・卑属語に変える。正確な語源は不明だが、その軽蔑的響きから68年の事件には参加しなかった人たちの間の通俗語をマスコミなどが使いだしたと推測できる。また日本では「5月革命」として知られているが、フランス語では「Evevements de Mai 68」となり、上記インタビューの中でもあえて「MAI68」とした。
そして68年から20年後の1988年、フィリップ・ソレルスは「Soixante-huitard」のかわりに英語の「MAY」あるいは仏語の「MAI」から「MAYEN」という言葉を作っている。
「私たちは最初のMayenだ。結果はMayenを正当化しない*。あらゆる場所にいること、ちりじりに、位置づけ不可能で、笑いきるため、反抗的混乱を
まき散らすために敵となる、これが彼らの恐るべき強さだ。またMayenは純粋な哲学的思考よりテレビと相性がいい。カフカを読みながらサドも読む。古典主義者、かつモダン、かつポストモダンだ。軽薄に見えて、とても真面目だ。どこにもいかない。あらゆる場所に旅をする。自分のいる場所を動かずとも。分類不可能の粒子。春のクオーク。」
*「結果は手段(moyen)を正当化しない」という表現とかけている。
Philippe SOLLERS, LA GUERRE DU GOÛT, Gallimard, 1994.