女性が引き継いだ5月革命
学生たちの “怒り” が火花のように燃え散ったと考えるのは、表面的な見方だと思う。
ブザンソンの200年の歴史をもつ時計工場 LIPでは、 5月のあとも労働者たちによる自主管理が70年代まで続いた。
もう一つ忘れてならないのは、女性たちによる中絶・避妊薬解禁のための闘いだろう。 5月革命中に各区にできた実行委員会のうち、その後も活動を続けたのが女性グループによる中絶自由化運動だった。68年当時はまだピルもなく中絶もできなかった時代だったのである。
第二次世界大戦中に自宅で中絶手術を施していた素人の女性がギロチン刑となったのは有名な話だが (シャブロル監督が映画化したのが「主婦マリーがしたこと」)、60年代にも非合法的に中絶をし罰せられた医師がかなりいた。
中絶自由化運動の活動家たちは、朝市で主婦たちにビラを配ったり、中絶をしたくても英国やスイスまで行けない主婦や未婚女性たちのために、観光バスを仕立てて外国の町に送りこむということもしていた。
その後、この運動を引き継いだのが中絶・避妊自由化運動(MLAC)である。活動家の中には、医学部の学生またはインターンだった女性もいた。彼女たちは妊娠12週間未満の妊婦には吸引法によって中絶した。しかし出血多量で医師の介入が必要な場合は病院に妊婦を連れて行ったが、 「アフターサービス」はゴメンと、医師に断られることもあった。
73年にシモーヌ・ヴェイユ元厚生大臣が保守派男性議員たちの罵声を浴びて中絶・避妊合法化案を採択させた場面を覚えている人も少なくなかろう。そのときのヴェイユ大臣の姿と、 5月革命後を闘っていた女性たちの姿が二重写しになって浮かび上がってくるのである。
酷な言い方だが、30歳以上の人の中には望まれずして生まれてきた者も多いはず。しかし、30年前の闘いによって獲得したピルの解禁によって、女性たちは恋のために恋をし、欲しいときに子供を生む自由を得たのである。
ソワソントウィッタール (68年世代) 女性の生き方の原点は、この辺にあるのではなかろうか。 (O・K)