68年 5月に起こったこと
小沢君江
68年といえば、戦後ベビーブーム世代の青年たちがバカロレアを取得後(当時の取得率は19%にすぎなかったが)、戦後最高の大学入学者数を記録した時期にあたる。
アルジェリア戦争も終結し、産業の急速な発展に合わせ、消費文化が堰を切って国民の生活を質的に変えつつあった。自動車産業、道路建設業と、人手が足りず資本家たちは旧植民地に労働者を求めに行っていた高度成長期、失業者は今の11分の1にあたる30万人しかいなかった。
パリではベトナム和平交渉が、西欧諸国の大都市では学生運動が、中国では文革の嵐が吹き荒れていた時期でもあった。
68年5月革命が爆発する前の67年3月、パリ西部は移民のスラム街と急拵えのセメント団地に挟まれたナンテール大学で、社会学部の学生たちが大学改革
案へ反対すると同時に、男子学生の女子寮への入室禁止規則の廃止を要求して女子寮を占拠していた。
「拘束のない生活を」「禁じることを禁じる、自由を侵すことを禁じて初めて自由が始まる」と、落書きする学生たち。その一人がドイツ人学生 ”赤毛のダニー” ことダニエル・コンバンディット(23)だった。
68年3月22日、ベトナム反戦デモで数人の学生が逮捕されたのに抗議して、コンバンディットらは<3月22日運動>を発足させ学部を占拠。学長は占拠者の排除と学部閉鎖の強行手段をとる。
5月3日、ナンテール学生たちはバスチーユならぬソルボンヌ大学構内に侵入したが官憲に排除され約500人が逮捕される。その晩からカルチェラタンにト
ロツキスト、状況主義者、アナーキスト、毛沢東派、マルキシストと、 ”怒れる” 学生たちが結集。
「逮捕者釈放、官憲撤退、ソルボンヌ開放」、学生たちはこの三項目を掲げてデモを繰り返す。機動隊による弾圧もエスカレートしていった。逮捕者約600
人、負傷者は1000人以上に及んだ。このときポンピドー首相はアフガニスタンを訪問中だった。
10日、学生たちはサン・ミッシェル街にバリケードを築き、カルチェラタンそのものを占拠、戦いに備え舗石をはがし鉄柵を抜き取り並木を倒し、かつての革命を再現していった。
帰国後さすがのポンピドー首相も狼狽。ダダをこねるガキどもの要求をのむべきか弾圧で答えるべきかの選択を迫られた首相は、前者を選ぶ。機動隊を撤退させソルボンヌを開放したが、ただし逮捕者は釈放しなかった。このときドゴール大統領は、5日間ルーマニアに滞在し、チャウシェスク第一書記と歓談中だった。ついに学生たちはソルボンヌを占拠、校内でビラやポスターも印刷し、パリ・コミューン風空間を創り出す。壁という壁にポスターが貼られていった。
「学問を忘れよう!夢を見よう!」「商品を燃やせ!」「恋すればするほど革命がしたい、革命をすればするほど恋をしたい」 「ポエジーは街に」
「舗石の下は砂浜だ」 「ボクはグルーチョ・マルキシスト」 「怒れ!」 「警棒の雨、育つのは無関心」
「ロボットにもドレイにもなりたくない」「ボクたちに発言権を!」 「革命、それは内なる鎖を壊すこと」 「保守主義は腐敗と醜悪」。
怒れる学生たちは、パパたちの安住する旧体制への反逆の叫びを、彼らが夢見るユートピアを、シュールにダダにアナーキーに壁にぶつけていった。イデオロギーのための革命ではなく、社会を、意識を変えるための言葉による革命を展開していった。
コンバンディットの他、 5月革命の中心人物に、高等教育教師組合(SNE-Sup)代表ジェスマールと、全国フランス学生連盟(UNEF)の副議長ソヴァジョがいた。ダニーがアジテーターなら、 2人は5月革命のスポークスマンとして教職員・学生層を動員していった。
同時に学生たちは労働者との共闘を目指し、ブローニュ・ビヤンクールにあったルノー工場に向かったが工場内には入れてもらえず、特権階級に属する大学生と労働者との階級的ギャップを味あわされる。
13日の学生・労働者、数万人に及ぶ反ドゴール・デモの後、オデオン座も占拠した学生たちの革命の火の手は、国鉄へ、エール・フランスへ、郵便局へ、ラジオ・テレビ局へ、カンヌ映画祭へまで飛び火し、ゼネストに発展。道路はゴミの山、内戦を予想し主婦たちは買いだめに走り回る。ルーマニアからドゴールが戻ったとき、フランスは、彼の言葉を借りれば、”Chienlit”(乱痴気騒ぎ)の真っただ中にあった。
ドゴール大統領はラジオで国民に改革の意志を表明し国民投票も提案したが、マヒ状態にある国民には現実離れした演説でしかなかった。政府はストを解除させるため、共産党系CGT組合のセギー委員長をグルネル会議に招き、精悍な若きシラク政務次官を折衝にあたらせ、5%の賃金引上げを提案した。労働者たちは引上げ率35%、
最低賃金(SMIG)1000フランを要求しストを続行。また、労働者たちは工場内のヒエラルキーの解体と民主化を目指し社内革命も進めていた。上司・同
僚間のカベを破るため職場でのtutoyerを一般化させたのも5月のスト中だった。
無政府状態のパリで共産党がドゴール政権を倒そうと思えば倒せた状況の中で、先手を打とうと凌ぎを削っていたのは、統一社会党のマンデス=フランスと、頭角を現し始めていた社会党系ミッテラン。 2人とも5月を機にドゴール後を狙うライバル同士だったが、マンデス=フランスは新左翼運動を理解し支持したのに対し、ミッテランはむしろそれを利用する策謀家タイプの政治家だった。
29日、「ドゴールが消えた! コロンベの自宅にもいない!? 30日に国会解散宣言をするはずだったのに!」と、ドゴールの”失跡”に動転するポンピドー。
ドゴール夫妻を乗せてコロンベに向かうはずだったヘリコプターは途中で進路を変えバーデン・バーデンに向かっていた。そこには旧アルジェ仏軍マシュ司令官(当時ドイツ駐留仏軍司令官)の邸宅があった。
5月革命で憔悴しきったドゴールは、最後の手段、軍部の力をかりるためマシュ司令官の忠誠を確かめに行ったのか?
それとも敵を煙に巻くレジスタンス時代からの彼独特の戦略だったのか?そのときの彼の意図はいまも謎に包まれている。
30日パリに戻ったドゴールは 「自分は引退せぬ。総選挙を決行」と宣言。国民がラジオから流れる将軍の “休戦”宣言を聞くと同時に、コンコルド広場からシャンゼリゼにかけて、当時の文化相アンドレ・マルローを先頭に100万人以上のドゴール支持者が三色旗の大河をなして溢れていった。
はたして、6月16日の総選挙はドゴール派が圧勝し、ポンピドーからクーヴ・ド・ミュルヴィル内閣にバトンタッチされた。ストは解除され、カルチェラタ
ンのバリケードは解体され、 “革命の夢” から覚めた学生たちはバカンス地に散って行った。— Adieu, Mai 68 —