” Ma protestation enflammee n’est que le cri de mon âme. Qu’on ose donc me traduire en cour d’assises et que l’enquête ait lieu au grand jour! J’attends. 私の抗議に熱が入りすぎているとしたら、それは私の魂の叫びだからです。私を重罪院で裁く勇気をもたれ、証人尋問が白日の下で行われますように! 私は待っています。 “
アルフレッド・ドレフュスの無実を訴えたエミール・ゾラの大統領宛ての手紙の結びには、今でも心を動かされる。この手紙はちょうど百年前の1898年1月13日、 L’Aurore 紙の一面に「J’Accuse…! 私は弾劾する!」という大見出しで掲載された。
1894年10月、ドレフュス大尉はドイツにフランス軍の機密を売った疑いで逮捕され、12月に、軍事裁判で終身懲役の刑を宣告される。唯一の証拠は、軍の機密事項を記した一枚の覚え書だったが、その筆跡は、ドレフュスのそれとは似ても似つかぬものだった。しかし彼がユダヤ人であるということが、このデッチ上げ裁判の発端になった。95年1月、エコール・ミリテールでのドレフュスの軍籍剥奪式でも、多数の群衆から「ユダヤ人に死を!」という罵倒が、彼に浴びせられた。同年2月、仏領ギアナの「悪魔の島」に送られる。
96年、軍情報部長のピカール中佐は覚え書の筆跡が、エステルハージ少佐のものであることを発見。またフランスやフランス軍に対する憎悪を明記した彼の手紙も公けになり、98年1月、エステルハージは軍事裁判にかけられる。しかし、圧倒的に反ドレフュスだった世論やエステルハージを支持して名誉を守ろうとする軍の立場から、エステルハージの無罪判決を確信していたゾラは、裁判中からこの「私は弾劾する!」の文を書き始め、新聞に発表されたのは無罪判決の翌々日のことだった。
文豪として認められていたゾラが、その名声を投げうって書いたこの一文は、ドレフュス事件の流れを変えることになる。軍の名誉を毀損した罪で、彼は、望んだように告訴され、重罪院で裁判が始まる。前述のピカール中佐の証言や、軍部の供述の矛盾が詳しく報道され、世論が目覚めていく。ジョレスやブルムといった以前からのドレフュス支持者にアナトール・フランスやプルーストも加わる。同年7月、ゾラは懲役1年の判決を受け、英国に亡命する。
この裁判をきっかけに、ドレフュス事件再審への道が開かれる。翌年の6月、ドレフュスは本土に召喚される。軍事裁判で再び有罪判決が下るが、その裁判の無謀さは隠しようがなく、9月には大統領恩赦になり、ドレフュスは自由の身となる。
昨年2月、フランスの映画作家たちが「私も有罪です。不法滞在の外国人を泊めました」という声明を出し、政府の移民法に不服従の立場を明らかにしたことは記憶に新しい。ここにも、一世紀前に書かれた「私は弾劾する!」の力強い反響を聞くことができるだろう。 (真)