Q:すごい!誰かの見習いではなく?
内藤:それが誰もいなかったんです。一応前の人と1か月引き継ぎをしました。私の他にもう一人パティシエの子がいて、同い年だったんで同期みたいな感じで仕事をしました。シェフからイメージだけを言われてデザートを作っていました。
Q:イメージというのはどんな?
内藤:「秋っぽく」とか「ナッツ使って」とか。雑誌に載っているデザートを見せて「このデザートのここ、こんな感じ」とか。具体的な時もありましたけれど、メニューの名前がアジサイになると「アジサイっぽいデザートを」とか(笑)。「えー、そんなこと言われましても…」と。
Q:そのオーナーはフランスで修行された方?
内藤:ずっと奈良の方です。もともとお料理の家族で、自分だけフレンチに進んだという人だったと思います。当時私も20歳ぐらいだったので、すごい年配な人、と思っていましたけれど、今考えるとそうでもないんかな。なんか古い考えのオーナーで、難しかったけれども面白かったです。
Q:そのお店にはどのぐらい?
内藤:1年半ぐらいです。
Q:そこはご自分で辞めた?
内藤:そうです、もうフランスに行きたい!と。パティシエとして働き始めた時からフランスには行きたいと思っていました。まあフランスというよりどこかへ、という気持ちでしたけれど、せっかく行くなら「フランス」だと。
Q :やっぱりお菓子を習うと本場はフランス?
内藤:そうですね。まあいろんなお菓子がある中で、やっぱりフランスだと思うんじゃないですかね。周りの人も留学したと聞くとフランスだし、だからフランスやったんかな。
Q:それでフランスへ。
内藤:アルバイトをしながらお金を貯めてフランスに。
Q :ワーホリですか?
内藤:そうです。貯金して、最初2か月だけホームステイと語学学校をセットで予約して、そのあとは何も決めずに23 歳の時に飛び出してきた感じです。「来ちゃったー」みたいな。学校に通いながらホームステイをしたのはパリの11区にあるフランス人のマダムだけのお家でした。子供たちが巣立ちしてしまって、空いている部屋に随時学生を2人ステイさせていたみたいです。
Q:そこで初めてフランス人家庭に?
内藤:そうですね。まあ大変でした(笑)。
Q :何が大変だった?
内藤:フランス語もしゃべれないまま何も準備せずに飛び出してきたので、コミュニケーションがとれなくて。私の他にいたもう一人の女の子はカナダ人で、フランス語も英語もぺらぺらやったから、私は全然しゃべられへんでしょう、食事中にマダムと彼女が盛り上がっていても私だけ入れない。2か月の間には「辛いなぁ」と思うことがよくありました。
Q:でも2か月ぐらいするとなんとなく相手の言うことがわかってくる。
内藤:そうですね、なんとなく。
Q:でもそこは2か月だけ?
内藤:そうです、学校とセットだったので。それからミクシィの掲示板で見つけた貸し部屋に移りました。パリの郊外にある一軒家の屋根裏部屋みたいな小さな部屋で月に390ユーロぐらいだったのかな。
Q:それもフランス人の家?
内藤:シェアハウスみたいな場所で、日本人が一人いて残り全員がフランス人だったのかな。全部で6人ぐらい。
Q :するとキッチンやバスは共同で?
内藤:各部屋にシャワーとトイレがありました。私の部屋にもあったんですが、もともと同じ階にあるもう一つの屋根裏部屋の持ち物ということになっていて、その部屋の住人と共同で使っていました。私の部屋というのは脱衣所ぐらいの広さ、本当に小さくてベッドを置いたら終わりという感じでした。ベッドのそばにドアがあって、そこにトイレとシャワーがあった。元々は向かいの部屋の人の
Q:脱衣所?(笑)
内藤:兼、物置だったんじゃないですかね。私は正規の契約ではなくて、他の住人たちが話し合って私の家賃で光熱費を浮かそうということだったらしいです。せっかくやからこのスペースに人を住まして、光熱費を捻出しよう、と。(笑)
Q:みんなで相談してそのスペースを又貸しすることになった。
内藤:そう、そういう感じです。なので大家さんが家を見に来る時には「友達が泊りにきている」ということになってたんかな。(笑)
Q:場所は?
内藤:大通りを挟んだらパリ、という感じの場所でした。Porte de Bagnoletバニョレだったのかな、治安があまり良くなさそうな場所でしたけれど、面白かったです。
Q:そこには結局どのぐらいいたんですか?
内藤:ワーホリが終わるまでです。
Q:その間は研修生として使ってくれるお店で?
内藤:いや、普通に働きました。
Q:どこで?
内藤:Itinérairesという店です。ネオビストロ、というか当時流行っていたビストロとガストロ(ガストロノミー=美食)の間みたいな、カジュアルだけれども素材にはこだわっているという店でした。たまたま出会った日本人が働いていて、お店がたまたまパティシエを探していて、という感じです。面接に行ったら「OK、いつからこれる?」と、トントン拍子に決まりました。私はフランスで「あれがしたい」「これがしたい」とか「星付きで働きたい」とか「有名シェフの下で働きたい」というようなことは何も考えずに勢いで来てしまったので、とにかく食べていける仕事をしないと!みたいな感じでした。
Q:そのお店でもいきなり作り始める?
内藤:そうですね、いきなり。大変でしたけれどね。
Q:入った時は一人で?
内藤:最初は一人で、何ヶ月かしたら日本人がもう一人入ってきました。
Q:お店には日本人が多かった?
内藤:いっぱいいました。
Q:大きなお店ですか?
内藤:いや小さいんですよ、これが。店は小さいけれど、厨房には6人ぐらいいました。料理人が6人、シェフ、洗い場が1人という感じでした。多い時には4人が日本人でした。
Q:調理部門には男性が多かった?
内藤:そうですね、韓国人の子以外は男性でした。お菓子部門は私も後から入ってきた子も女性です。
Q:なぜパティシエには女性が多いんだろう?といつも思うのですが、どうでしょう?
内藤:私もいつも思います。
Q:やっぱり血なまぐさいものを見たり、触ったりするのが嫌なのかな?
内藤:今のお店で働く女の子は全然平気みたいですけどね。
Q:こちらの人は慣れていますよね。田舎の市場に行くと、普通に鶏とか山羊なんかが生きたまま売っている。買う人は家で飼っても、最後は結局食べてしまう。
内藤:年取って卵を産まなくなったら肉が硬いから煮込みでとか、雄が生まれたら若いうちにグリルで、とか。主人の実家でもやってますね。
Q: それでワーホリが終わった後は?
内藤:一度日本へ帰って、学生ビザでこちらに戻る準備をしました。私、語学をやりたいと思ったんです。日本人が多いお店で働きながら、やっぱり見て作業ができても喋れない人には説得力がないと感じたんです。日本人で料理はできても言葉が喋れない人がいるじゃないですか。こんなに料理ができるのにやっぱり対等じゃないなと思いました。だから私はちゃんと喋れるようになりたいと思って、一旦お菓子のことは忘れて語学をやろう、とパリで語学学校に通いました。
Q:学生ビザは結構早く取れた?
内藤:4か月ぐらいかかりました。奈良から書類を送って、東京の大使館まで取りに行きました。面接みたいなものがあって、フランスに行って何がしたいのか、帰ってきて何がしたいのかと聞かれました。
Q:その時点では日本へ戻って来るつもりでしたか?
内藤:特に何も考えずに(笑)。いや、私あんまり考えないんですよね。とりあえず語学学校だけ決めて
Q:また脱衣所の部屋へ?(笑)
内藤:いや、あそこには新しい人が住んでいました。
Q:残念!(笑)語学学校には1年間?
内藤:1年と少し。毎日学校へ行って、夜はラーメン屋でバイトしました。
Q:その間はお菓子とは全く縁のない生活をしていた?
内藤:家で作れる範囲内で時々。お菓子が作れる仕事も探してはみたんですけれど、昼間働かなくていい、ということになるとラーメン屋さんぐらいしかなくて。 学校には行きたかったんです。
Q:お菓子というとフルタイムになってしまうから?
内藤:そうですね。周りには学生ビザを取って働いている人がいっぱいいました。私はお菓子の世界に戻るために、一旦お菓子を忘れてとりあえずちゃんと喋れて書けるようになりたいと思いました。
Q:ラーメン屋さんではサービスを?
内藤:作るほうです。カウンターでトッピングを切ったり、盛り付けをしていました。
Q:それでその後はまた日本へ?
内藤:いえ、カーンに。
Q:ひょっとするとここで結婚?
内藤:1年目にひったくりに遭ったんです。ワーホリが終わる直前で、パスポートからこちらで作った銀行カードから、カバンの中に入っていたレシピまで全て取られました。
Q:わー大変!メトロの中ですか?
内藤:いや、道でです。夜独りで歩いていたらカバンごと持って行かれて。その当時すでに付き合っていが今の主人が迎えに来てくれて一緒に警察に行きました。犯人は現場に戻ってくるって言うじゃないですか、覆面パトカーに乗せられて犯人を探していたら 戻ってきたんです。事件の時に近くを歩いていたカップルが追いかけてくれて、その時に自分の携帯を落としたみたいでそれを探しに来ていた。手には私のカバンに入っていたメモ帳だけを持っていました。カバンはもう捨てられていて結局何も出てきませんでした。捕まった犯人は結構貧しい家庭の 19歳と20歳の兄弟で、お父さんがいてなくてお母さんが病気だと後で聞きました。
Q: 切羽詰まった子たちだった。
内藤:でもね、それだからって盗んでいいわけじゃないですよね。
Q:もちろんです。パスポートが痛かったですね。
内藤:そうなんです。銀行へ行って事情を話しても、本人だと証明できない。パスポートは期間が短すぎて発行できないから、と大使館に一時的な紙を出してもらって帰国しました。
Q:そうでしたか。話が前後してしまいましたが、彼とは早くに知り合った?
内藤:そうです。
Q:だから学生ビザを取ってフランスへ戻ってこなきゃダメだった?
内藤:そういうのもあったんかなあ。
Q: 結婚されたのは?
内藤:カーンです。語学学校が終わってカーンに引っ越したんですけれど、まだもう少し語学をと思ってカーン大学に4か月行きました。その間に主人は仕事を探した、という感じですかね。学校が終わって、次の学生ビザの更新をどうしようか?と思った時に「結婚しようか」ということに。
Q:ここで結婚!教会で?
内藤:いえ、役場だけです。日本から家族が来てくれて、一応パーティーもしました。全部手作りでしたね。ドレスは彼のお母さんのお友達が、料理も一部は買いましたけれどカーンで知り合った日本人のお友達が手伝ってくれて持ち寄りで、まあホームパーティーみたいな感じでした。ケーキだけ一応買って
Q:ケーキは自分で作らなかった?「ケーキは私が作りました」とおっしゃると思ってずーっと待っていたのに!(笑)
内藤:ケーキは時間がかかるし(笑)。まあ一応その他は手作りで。
Q:そして結婚してカーンで仕事を?
内藤:そうです。有名なお店で働きたい、という気持ちもありましたけれど、小さい街に行くと選択肢も少なくて、結局調理補助とパティシエを探していた小さなイタリアンに行きました。確かPôle Emploi(フランスの職安)で見つけて、履歴書を持って行ったら「いつから始められる?」と聞かれてすぐに働き始めました。旦那も失業手当をもらっている立場で、お互い稼ぎがない状態が何ヶ月か続いたので「働かなあかん」と。そのイタリアンではティラミスとかパンナコッタなどの定番デザート以外に「今日のデザート」だけは好きなことをやっていいと言われていました。まあ、材料はもちろん限られてはいるし、今みたいにいい食材ではなかったですけれど、好きなことをやらせてもらっていましたね。ただフランス人が持つイタリアンのイメージというのは「ローコスト」なのかな、お店の方針がそっちの方向へ進んでいってしまったんです。デザートも出来合いのものを盛ったりするようになって、もちろん経営上仕方なかったとは思いますが「これは違うな」と。
Q:そのお店にはどのぐらい?
内藤:1年弱です。当時主人がカーンからルーアンまで通っていたので
Q:車で1時間。
内藤:車だとガソリン代がバカにならへんし、しんどいからやっぱり。それやったら電車にする?って電車にしてみたら本数が少なくて不便だし、各駅停車しかないので時間がすごくかかる。夕方6時に終わって9時ぐらいに帰宅してたんかな。これはもうやってられへんと思って
Q:いっそのことルーアンへ。
内藤:そう。私はパティシエやし探したら仕事は見つかるやろ、と思いました。それでルーアンへ来てパン屋さんで働き始めました。
L’ODAS (内藤さんがパティシエとして働くお店)
Adresse : Passage Maurice Lenfant, 76000 RouenTEL : 02.3573.8324
URL : www.lodas.fr