『影の消えるまで』
著 ルイ=フィリップ・ダランベール/Sabine Wespieser 社
ハイチとユダヤ人。
1937年、ハイチ共和国は、ナチズムが席巻するヨーロッパから逃れて来たユダヤの人々に無条件でパスポートとビザを発行する決断をした。これは、同国の大統領ステニオ・ヴァンサンが彼らにハイチ国籍を与える政令を発布する2年前のことだ。それ以降、60年代に至るまで当地に残ったユダヤ人家族は300世帯にのぼると言われる。ハイチ出身の作家ルイ=フィリップ・ダランベールは、生涯をその地で過ごしたユダヤ人医師ルベン・シュヴァルツベルクとその一族の視点を通して、故郷が誇るこの知られざる歴史を現代に蘇らせる。
物語の導きとなるのは、同じくハイチ出身の知識人アントノール・フィルマンが1885年に発表した『諸人種の平等について』だ。ゴビノーの悪名高い『諸人種の不平等についての試論』へのアンチテーゼとして書かれたこの本を、ルベンの叔父がパリの本屋で偶然見つけ持ち帰ったことから、ポーランドのユダヤ人一族とフランス語、そしてハイチとの繋がりは始まる。まるでその本との出会いによって運命付けられたかのように、ベルリンからブーヘンヴァルト強制収容所を経てパリのハイチ人コミュニティへ、そして最後は「ヴードゥー」の国へと、ルベンの長い旅路には常にこのカリブ海の小国と人種の問いが回帰するのである。
不可視のものたちへ。
読み進めるにつれ、実はこの物語が2010年、つまりハイチ大震災が起きた年にルベンの視点から語られていることが読者に明かされる。戦時中にイスラエル建国のためパレスチナに向かった叔母ルース、その彼女に瓜二つの孫娘デボラ。イスラエルが派遣する医師団として被災地に駆けつけた彼女が、彼の生涯を語ってくれるようこの老医師に頼んだのだった。二人が出会う場面は、作品のなかでも最も印象的な場面の一つである。ラム酒の瓶を持ってきたルベンは、グラスに注ぐ前に3滴のラムを地面へと落とす。その作法に驚いたデボラが理由を尋ねると、老人はこう答えるのだ。「彼らハイチ人は、見えないものたちへとそれを与えずには決して飲まないんだ。つまり死者たち、天使たち、人が神秘と呼ぶものへとね。私たちを超えるものだ、要するに。これは人間がこの世界で孤独ではない、多くの生ける者たちやモノたちへと繋がっていると思い出す作法なんだよ」。ラム酒は、大震災の犠牲者に、そしてナチスによって迫害され虐殺された人々に捧げられる。しかしこの作品はまた、現在もなお自分の土地から追われた全てのものたちへと捧げられてもいるのだ。だからこそ著者は、老医師が重い口を開いた理由をこう説明する。「彼がこの歴史へと立ち返ることを受け入れたのは、今日も安息の地を求めて砂漠、森林、海を渡り歩く何百何千という難民たちのためであった。彼のささやかで個人的な物語は、時に、彼らの物語を思い起こさずにはおかないのだ」 。
「家」とは何か?
ユダヤの民族とハイチが共有する歴史を他の人々へと開くこと、これが著者の行う最も無謀で、しかしそれゆえに価値ある試みである。彼はユダヤ人国家によるパレスチナ占領にも、イスラエル建国当時にハイチが賛意を示していたことにも盲目ではない。度々引用されるパレスチナの抵抗詩人マフムード・ダルウィーシュの言葉はまさにその問題への目配せであり、さながらそれは通奏低音のように物語を象徴する言葉として機能する。詩人はかつてこう書いた。
「一つの場所、私は一つの場所が欲しい!唯一の場所でなく一つの場所が欲しい、自分自身を取り戻すための、もっと堅い木に紙を置くための、もっと長い手紙を書くための、壁に絵を掛けるための、自分の衣服をしまうための、君に私の住所を教えるための、ミントを育てるための、雨を待つための場所が。場所を持たない者は、数々の季節も持たないのだ」。自分の「家」を持つこと、それはある人々にとっては簡単なようでも、別な人々にとっては最も難しいことにもなるのである。(須)
ルイ=フィリップ・ダランベール
1962年ハイチに生まれる。南北アメリカ、アフリカ、中東などでの旅人としての経験が作品に色濃く反映する。エルサレムに長期滞在したこともある。’82年に初の詩集を出版。