マティスになってから。
サロン・ドートンヌに出した絵は米国人作家のガートルード・スタインが購入し、彼女はマティスのコレクターになった。その後のマティスの芸術家人生は上り坂だ。1908年にはアメリカで初の展覧会、翌年はベルリンで個展を開き、パリの画廊ベルネーム・ジュンヌと契約を結んだ。ロシア人コレクターのセルゲイ・シチューキンからは自宅に飾る大きな装飾を依頼された。1931年、ニューヨーク近代美術館で回顧展。アメリカのコレクター、アルバート・C・バーンズの注文で、バーンズ財団の壁画も描いた。アシスタントに雇ったロシア人のリディア・デレクトルスカヤが原因で1939年に妻と離別。大腸癌から回復したが、体が弱った最晩年は切り絵に専念した。装飾を手がけた南仏ヴァンスの礼拝堂はマティスの晩年の傑作だ。「絵は装飾的であるべき」と言うマティスはテキスタイルの町で育った人である。装飾性はアイデンティティの一部だった。早熟の天才ピカソとは真逆のマティスは大器晩成型。努力を重ねて〈巨匠〉と言われるまでになった。
マティスとピカソ。
マティスがピカソに大きな影響を与えた逸話がある。ピカソらとガートルード・スタイン宅に招かれたマティスは、道すがら見つけたアフリカ彫刻を買い、夕食会に持っていった。ピカソは一晩中その像を手から離さなかった。同席していた詩人マックス・ジャコブが翌日ピカソのアトリエを訪れると、彫像からインスピレーションを得たデッサンがあった。「キュビズムの誕生だった」とジャコブは回想している。20世紀美術を革新した巨匠として何かと比較される2人だが、ピカソの伴侶だった画家フランソワーズ・ジローによれば、マティスの方が12歳上で穏やかな性格だったことから、ピカソはマティスを敬愛し、競争心は持たなかったという。晩年は二人とも南仏に住み、交流を続けた。
アカデミー・マティス。
ガートルード・スタインの兄の妻サラと画家でコレクターのハンス・プルマンが中心になり、1908年、パリ7区にアカデミー・マティスができた。若者に自分の道を見つけて欲しいと願い、マティスは教師役を引き受けた。生徒は主に北欧人、ドイツ人、アメリカ人。マティスが石膏や人体のデッサンを批評し修正するというアカデミックな授業だった。学生たちが批評の後シュンとしたため、マティスは 「羊をライオンに変えるため毎回励まさねばならなかった」。しかし、マティスは 「自分は教師ではなく画家だ」と再認識する。そして、絵に専念するため次第にアカデミーから遠ざかった。1912年、アカデミーは閉校した。マティスのようになる秘法を知りたいという学生たちの期待に、苛立ちも感じていたようだ。