世界中で猛威を振るう新型コロナウイルスCOVID-19から身を守るため、各国が国境封鎖や市民の外出制限などの厳しい措置を取り、現在不自由な軟禁生活を強いられている人々の数は全世界の人口の3分の1といわれている。COVID-19は哺乳類や鳥類に病気を引き起こすコロナウイルス(コロナ=ラテン語で「冠」)の仲間で、トゲトゲの突き出た球状の冠のような姿はいかにも恐ろしく、人間がまだ免疫を持たない新型ウイルスであるだけに人々を不安に陥れている。
昨年末から今年にかけて中国を中心にアジアで感染が広がっていた頃、ヨーロッパ人にとってはまだ対岸の火事だった。ところがみるみる世界に広がり、「そのうちワクチンができる」「治療薬もすぐできる」と余裕を見せていた多くのフランス人も、イタリアで大勢の犠牲者がでてからはようやく事の重大さに気づき始めた。それからほんの1週間足らずで、私たちの生活の何もかもが変わってしまった。
COVID-19に感染すると、発熱、だるさ、咳など風邪に似た症状を起こすが、8割は軽症のまま治る。しかし一旦症状が悪化すると、急激に重い肺炎を起こして呼吸困難となり、時として死に至る。いくら高度な医療技術があろうとも、短期間に重症者が増えれば治療環境は悪くなり、大勢の犠牲者を出すことになる。それが今現実に起きているのだ。未知のウイルスにはワクチンはもちろんのこと、確かな治療法もなく、科学者たちも手探りの状態だ。
フランス医療界、賛否が真っ二つに
誰もが右往左往している今、世界の注目を集めているのはマルセイユ医大のディディエ・ラウト教授だ。感染症専門医で地中海感染症研究所所長でもある。彼の医療チームは、3月初めにCOVID-19の治療薬としてヒドロキシクロロキンが効果的だという報告をした。ヒドロキシクロロキンというのは、マラリアの治療薬として70年前から使われているクロロキンの代謝物質で、マラリアのほか、関節リウマチ、エリテマトーデス(狼瘡 ろうそう)などの自己免疫疾患の治療にも使われていて、副作用が少なく安価、WHO(世界保健機関)の必須薬品モデルリストにも挙げられている。
この朗報は地球を駆け抜け、トランプ大統領も大喜びでツイートした。ところがフランスの医療界は、支持派と反対派、真っ二つの陣営に分れてしまった。反対派は、報告された検査数がたったの24例ではデータの信頼性に欠けると批判。臨床ではヒドロキシクロロキンと抗生物質アジスロマイシンが6日間投与され、20名が治癒。しかし1名は死亡した。反対陣営は、「死亡者が出たのなら効果があるとはいえない」と声高に非難する。
長髪にヒゲ、医者らしからぬ風貌のラウト教授は世界屈指の感染症専門家だ。2010年には国立厚生医療研究所が彼の長年にわたる功績を表彰している。軍医の父と看護婦の母の元にセネガルに生まれ、家族がマルセイユに居を構えたのは彼が9歳の時。幼い頃から我が道を突き進むタイプだった。学校嫌いの高校時代に商船の船乗りとして2年間旅に出たという経歴を持つこの人物は、石橋を叩いて渡るようなパリジャン官僚とは対照的だ。官僚的医師たちが束になって「もっと確実なデータを集めるべきだ」、一歩譲って「使用は重症患者だけ」と叫んでも、マルセイユの頑固な船乗り医師は、「患者がいたらまず治療するのが医者の仕事。治療法がまだない未知のウイルスには素早く対応しないといけない。重症になってからでは遅いのだ」と譲らない。
13年前にクロロキンの抗ウイルス効果を報告
フランス国内の臨床例はまだ少ないが、先に感染が広がった中国や韓国ではすでに抗COVID-19治療として臨床検査が行われ、一定の効果を上げている。そもそもクロロキンの抗ウイルス効果の可能性を示唆したのは13年前、ラウト教授自身だった。中国ではそれを元に検査を試みたのだった。官僚たちが足踏みしている間、パリやリールの病院は臨床検査の協力に名乗りを上げた。世界では、中国、韓国をはじめ、オランダ、ベルギー、イタリア、アメリカ、インド、モロッコで抗COVID-19治療薬としての許可が出された。そしてついにフランスでも、26日、厚生省がヒドロキシクロロキンをCOVID-19の治療薬として認めた。
フランスではプラケニル(Plaquénil)という名で町中の薬局でも買える薬だが、ラウル教授の報告以降は飛ぶように売れて在庫が切れそうになり、長年この薬で治療してきた患者たちが困惑している。しかし製造元のサノフィ(Sanofi)社は最速ペースで製造しているので心配はない。さらにサノフィ社はCOVID-19臨床用に30万人分のヒドロキシクロロキン(商品名プラケニル)とクロロキン(商品名ニヴァキン)を無償提供することを決めた。
ラウト教授はヒドロキシクロロキンが奇跡の治療薬だなどとは毛頭思っていない。今後ほかの治療法が見つかれば変更すればよいという。強靭だが柔軟なこの姿勢の背景に、少年時代に彼が揉まれた海が見えるような気がする。青く穏やかな日もあれば、荒れ狂う日もある。陸地の世界も同じなのだ。今は外を自由に歩けないが、せめて窓から地中海の青さを想像したい。(仙)