ブローニュ・ビヤンクール 30年代建築散策。
Balade des architectures des années 30 Boulogne-Billancourt
取材・文・写真/稲葉宏爾
Photo et texte : Koji INABA
市長と建築家が目指した、すべての住民に開かれた市庁舎。
ブローニュ・ビヤンクールの市庁舎は、1931~34年に建てられている。飾り気のない地味な印象の建物が面した通りは、アンドレ・モリゼ大通り。この市庁舎建設をリードした、当時の市長の名前です。
19世紀後半まで、産業といえばセーヌの水を利用した洗濯屋ぐらいだったブローニュの町は、19世紀末から20世紀初頭にかけて、町の南側セーヌ寄りのビヤンクール地区を中心に、自動車、航空機、映画など近代産業の工場や事業所が次々と設立されます。中でもルイ・ルノーが1899年に生産を開始したビヤンクール工場は、その規模を急速に拡大し、1929年には、セーヌの中州スガン島に新工場が造られていた。
こうした近代産業の興隆に伴って、工場労働者などの新住民が流入し、町の人口も急激に増加したため、町のやや北寄りの古い館にあったそれまでの市庁舎はパンク状態で、新庁舎への移転が必須だった。新住民にはたくさんの移民もいました。第一次世界大戦で140万人近くの戦死者を出したフランスでは、労働人口が不足していたので、移民労働者の雇用に積極的だったルノーは、イタリア、スペインをはじめ、アルジェリア、モロッコ、セネガル、ヴェトナムなどの当時の植民地、さらにロシアやアルメニアなど、驚くほど広範囲からの人たちを迎え入れていた。中国から留学していた周恩来や鄧小平も一時臨時工として働いていたという。
新庁舎建設を計画したモリゼ市長はまず、敷地を町のほぼ中心の現在の場所に決めます。共産党と社会党を基盤に、市長として長く市政を担っていたモリゼは、多様な市民のための市庁舎を創るのに最適な人物として、リヨンを中心に活躍していた建築家・都市計画家トニー・ガルニエに設計を依頼。建設にはガルニエの後輩で、モリゼの義弟でもある建築家ジャック・D・ポンザンが協力している。
入り口を入ると、正面のガラス扉の奥に、結婚式などに使われる大広間へ上る石の階段が見えます。階段の脇を奥へと進むと、吹き抜けの大ホールに出る。この空間がすばらしい。横幅が68m、奥行き28m、天井の高さは22m。このホールを、ガラス壁で仕切られたオフィスが囲んでいる。この仕切りをデザインしたのはジャン・プルーヴェだ。ガラス越しに職員が働く姿がシルエットになって見える。オフィスの向こうに建物の外の緑が光っている。ホール内は、このガラス壁と、高い天井からの柔らかな光でつつまれています。
オフィスにはカウンターが巡っていて、上に各部署の名がわかりやすく表示されている。訪れた市民はそれぞれの部署のカウンターの窓口に行けばいい。ガルニエはここを 「窓口のホール」と呼んでいたという。
玄関側の踊り場から階段を上ると、三層の回廊からホールを見下ろすことができる。上階のオフィスも1階同様ガラス張りです。ホールの空間だけでなく、階段や回廊の手すり、照明、ベンチ、扉の把手など、細部のしっかりしたデザインと素材も魅力的。市民ファーストの機能性を求めたモリゼ市長の言う「余計な装飾のない、丸裸の建物」がここにある。この市庁舎は、大聖堂などの巨大な建物の持つ威圧感はなく、現代建築に多い透明感のある空間でもない、落ち着いたやさしさに満ちた名建築です。
市庁舎向かいの郵便局は1938年築。市の警察署の入った右手の市庁舎別館は1936年~46年の建物。建設に10年もかかったのは第二次世界大戦で中断されたためです。左手には「30年代美術館」のある “エスパス・ランドウスキ”がある。いかにもアール・デコらしい曲面を持つ建物だけれど、これは1998年の建築です。市庁舎からほど近いジャン・ジョレス大通りのモノプリ(旧プリズニック)の建物は1936年の商業建築。中心街にはこの時代の建物がたくさん残されています。