Auvers-sur-Oise
ゴッホは自殺でなく他殺だった、という仮説にもとづくマリアンヌ・ジェグレ著の小説 “Vincent qu’on assassine“(L’arpenteur, Folio 邦訳『殺されたゴッホ』)を読んで、天才画家が死にいたるまで70日間を過ごしたオヴェール=シュル=オワーズを訪れたくなった。アルルからオヴェールまで、ゴッホの最後2年間の軌跡をたどったこの小説には、画家の絵画に対する情熱と苦悩が、臨場感にあふれる筆致で描かれている。
セーヌ川の支流オワーズ川沿いの町オヴェールは、パリから北北西に約30キロ。1846年にパリ=リール間の鉄道が開通して以来、のどかな「田舎」を求めるパリジャンで賑わうようになった。草上のピクニック、川でボート遊び… 。印象派の先駆者と言われるドービニーは、アトリエに改造した船でオワーズ川を移動中、オヴェールが気に入って土地を購入。1861年に建てられた家・アトリエ(見学可能、美術館もある)には、コロー、セザンヌ、モネ、ピサロなどが集った。
ゴッホの肖像画で有名なガシェ医師は1872年、オヴェールに「田舎の家」 を構えた(文化省「著名人ゆかりの家」の一つ)。神経症を研究し、ホメオパシーなど自然医療を用いる、一風変わった医者だ。自らも絵や版画に手を染め、美術愛好家・蒐集家の彼は、ピサロなどとりわけ印象派の画家たちと親交を結んだ。アルルでの「耳切り事件」の後、南仏の精神病院に入院したゴッホを、弟のテオはピサロの紹介で、ガシェ医師に委ねた。
1890年5月20日、ゴッホはオヴェールの土を踏む。町役場の向かいにあるカフェ「ラヴー亭」の3階、屋根裏の小部屋に宿を定めた彼は、そこで息をひきとるまで、80点近くの絵画を描いた。7月27日、村から離れた畑の中で、ゴッホは銃弾で左腹に重傷を負う。自殺にせよ撃たれたにせよ、彼はそこからラヴー亭までの道のりを歩いて戻った。
7月の熱い日射しのもと、ゴッホが「カラスのいる麦畑」を描いた場所から、ラヴー亭までを歩いてみた。教会は現在修復中だが、畑の黄、緑、茶の色彩、雲がうごめく空や草いきれが、ゴッホの書簡に記された言葉を思い起こさせる。
「かき乱された空の下の、広大な麦畑。極度の悲哀と孤独を、僕は存分に表現しようとした」 。
負傷したゴッホのもとに駆けつけたガシェ医師の家は、ラヴー亭から徒歩で約15分。夏の草花や木々に覆われた庭からは、オヴェールの町の屋根と、川向こうの林が見渡せる。博物館として整備された屋内には、版画用プレス機や画材も展示され、屋根裏のアトリエの壁や柱には、当時の絵の具の跡が残っている。
オヴェールの司祭は、「自殺した」プロテスタント教徒ゴッホのミサを拒否した。遺体は、畑の中の新しい墓地に埋葬された。画家(創作者)として存在できる場所を見出せず、神経症を病んだゴッホは、アルトナン・アルトーが書いたように、「社会」によって殺されたといえるのかもしれない。(飛)