パリ在住のアーティスト松谷武判さん、「具体」を語る。
※2018年8月に掲載された記事です。松谷武判さんのポンピドゥ・センターでの個展を機に、再掲載しています。
南仏アヴェロン県の県庁所在地ロデスで、1950年代に関西で生まれた前衛芸術「具体」展を開催中だ。会場は、ロデス出身で「黒の画家」と呼ばれるピエール・スーラージュの名を冠した美術館。具体展の開催は、何度も日本を訪ねたスーラージュの希望でもあったという。
「具体」こと「具体美術協会」は戦前から美術家・実業家であった吉原治良(1901-1972)が中心となり、1954年に関西の若手美術家たちと設立した。「具体」と言う名前は嶋本 昭三(1928-2013)がつけた。会員は吉原を師と仰ぎ、彼の「人がやっていないことをやれ」という言葉を実行して体全体を使って描くなどのパフォーマンスやハプニング、インスタレーションを繰り広げた。会は1972年、吉原の死で解散した。多くの会員が故人となった今、最年少の会員がパリで活動を続けている。その松谷武判さんが、展覧会のオープニングに駆けつけた。会場とパリのアトリエで伺った松谷さんの思い出を通して、具体を紹介したい。
具体に入会
松谷さんは1937年大阪市生まれ。15歳で結核にかかった。治療薬のない時代なので、将来就職することはできないと思い、好きな絵の道に進むことにし、病気が小康状態のときに大阪市立工芸学校日本画科に進学した。しかし再発を繰り返し、中退。その後は自宅で絵を描き、ヌードデッサンの教室に通う。1958-59年、教室には具体メンバーの元永定正(1922-2011)が来ていた。その頃、松谷さんのスタイルは写生から具象、具象から抽象へと変化。元永の紹介で具体のリーダーの吉原に作品を見せたが、ダメと言われ、3年後に水性接着剤をキャンバスに流した作品で入会許可が下りた。
「具体のモットーである『人がやっていないことをやれ』と言われても視覚的にどうしたらいいのか、悩みました。それで素材から入っていこうと思いました。友人のいた大学の研究室に細胞のデッサンをしに通っていたことがあったので、有機的な細胞の世界からヒントを得て、立体的な絵を作ろうと思いました。ある天気の良い日、キャンバスに水性の接着剤を乗せてひっくり返したら、それがつららのような形になった。扇風機で乾かしたら思う形にならないかと考え、(形になった接着剤を)切ったり、その中に空気を入れたりして立体的な絵を作りました。近所に住んでいた具体メンバーの村上三郎さん、向井修二さんに見てもらったら、「まっちゃん、これ、おもろいんとちがうか」と言われました。それで吉原先生に見せたら、仲間に入れてもらえました。1963年のことです」。具体美術協会に入ったのは比較的遅かったので、10歳以上年上の創立時からのメンバーが1954年に行ったパフォーマンスは見ていない。それがコンプレックスになって、具体を超えるのが目標だったという。
1966年、関西日仏学館長のアイデアで、毎日美術コンクールに優勝した関西以西の若い美術家をフランスに送る給費留学生制度ができた。最優秀賞をとった松谷さんは半年分の給費を手にフランスに着いた。以来ずっとフランスで活動している。
吉原治良のスタイル
具体展には、主に絵画39点が展示されている。うち16点は兵庫県立美術館から貸し出された。ロデスに来た同美術館の蓑豊館長は、吉原についてこう語った。「吉原は藤田嗣治をとても尊敬していましたが、なかなか会えませんでした。やっと会えた時、彼は象徴主義的な絵を描いていました。それを見た藤田に「人のまねはするな」と言われ、スタイルが変わりました」。この藤田の言葉が、戦後創立した具体のモットーになった。吉原は抽象画に移った。吉原製油㈱の御曹司で、社長業をしながら絵を描き、絵でも高い評価を得ていた。蓑館長は「感性がすごかった。いい絵を描いていた」と言う。
吉原は外国の客人を寺に案内し、大きな筆遣いによる書や絵を見せたことがあった。「吉原さんはあるとき「私は『禅』ではない。しかし私たちの根底には、精神的なものとしていつも禅的なものがある」と言いました。私は50年近くフランスに住んでいますが、29年住んだ日本の精神文化を忘れることはできない。吉原さんにも根底に非常に東洋的なものがあったと思います」と、松谷さんは分析する。
リーダー吉原の葛藤
具体では、女性作家も男性作家も同等に扱われた。優れた女性作家を輩出し、田中敦子のような、吉原のライバルとなるようなアーティストも現れた。
蓑館長は語る。「若手が人とは違うことをやっていたので、リーダーの吉原の絵も若手に負けないようにと頑張るうちに変わってきましたが、田中敦子が出てきてからは、非常に心の中で葛藤があったと思います。彼は田中の実力を早くから見ぬいていました。ニューヨーク近代美術館(MOMA)が、白髪一雄の作品などは一点も買わないのに、田中の作品はたくさん集めていました。吉原は、自分より田中の名のほうが先に世界に出て行ったことに、内心非常にライバル意識を燃やしていました。そんなことから、田中は具体にいづらくなって脱会しました。吉原と田中という2人のいいライバルがいたからこそ、ほかのメンバーも伸びたと思います」。
吉原の葛藤は、松谷さんも証言している。「あるとき吉原さんが、古くからの会員に『絵を見てくれ』と言いました。皆が遠慮して「先生、ええんとちがいますか」と返事したら、「ばかやろう!」と筆を投げつけられました。絵を見てくれと言ったのは画家の吉原であって、リーダーの吉原じゃない。皆が伸びてきているから、ジレンマがいっぱいあったと思いますよ」。
外国での評価のほうが高かった
究極の丸を描いた吉原の作品、描いたときの激しい動きが見えるような白髪一雄の作品、ニューヨーク滞在後、作風が一変した元永定正、繰り返される流動的な丸と線の田中敦子など、今見ても新しい作品が展示されている。
松谷さんは、本展のポスターにもなった1965年の自作を説明した。「キャンバスに水性接着剤を流し、そのマチエールを切って乾かしたりしました。マチエールのほうが語りかけてくるのです。そうするとマチエールとの会話が始まります。私は肉感的、性的なイメージが好きです。吉原さんは絵にストーリーがあるのは好まなかったし、性的なものも嫌がった。それでも元永さんや私が作る有機的なイメージは認めていました」。具体展のポスターになった松谷さんの絵には、性器のような盛り上がりや血のような赤がある。絵が「ふうん」と言っているような、しぐさが感じられる絵だ。
具体は、日本よりも外国での評価のほうが高かった。「日本で、『これでも絵か』と評されたこともあります。一方、外国からは、グッゲンハイムなど美術館の人たちがたくさん作品を見に来ました。メンバーの絵を見た美術評論家・キュレーター・コレクターのミッシェル・タピエが驚いてヨーロッパに持って行って紹介したので、売れるようになりましたが、そのため活動がタブロー主義(絵中心)になりかけました。ハプニングをやっても、もともと絵は描ける人たちでしたから。けれども具体の精神で描いていましたね」と松谷さん。ハプニングやパフォーマンスの先駆だった具体の再評価が高まっている。ロデスの具体展は、「ジャポニスム2018」の一環でもある。(羽)
11月4日まで 月休 7-8月は無休
Journée japonaise au Musée Soulages
〜2018年8月7日、スーラージュ美術館内で日本イベント〜
10h45 -12h:書道入門
日本から書家・松井由香子氏を迎え、来館者のための書道入門。松井氏は東京で書道を教える一方、書と絵画が融合するような作品制作、現代美術家や音楽家とともに書のパフォーマンスを行っている。
17h30 -18h45 :講演会 ”ピエール・スーラージュの日本 / Le Japon de Pierre Soulages”
世界110カ国で作品が展示される画家、彫刻家、版画家スーラージュ(1919 -)。1951年に初めて日本で作品が紹介され、57年に初来日してから、日本とは密接なつながりを持ち続け、1992年には「高松宮殿下世界文化賞」を受賞している。彼の美的感覚を育んだ故郷の町ロデス、日本との出会い、日本の現代書道作品との類似性、日本との精神的なつながりなどの視点から、フランス国立日本研究所の研究者マチュー・セゲラ氏が、フランス美の巨匠にとっての日本を語る。
18h45−19h30:書道パフォーマンス
館内のオーディトリアムにて、書家・松井氏による書のパフォーマンス。マリー・ラバティ氏のクラシック・ギター演奏とともに、古典的、半抽象的、抽象的なスタイルの書までを披露。会場内にはライブ映像で、松井氏が書き(描き)出す書が大きく映写される。
ミュージアムの入場券があれば参加自由・無料。
オーディトリアムでの講演・パフォーマンス予約:amisdumuseesoulages@gmail.com
Musée Soulages Rodez
【パリからの行き方】
モンパルナス駅から国鉄でロデス駅まで7-8時間。駅から徒歩30分。
パリ・オルリー空港からイースタン航空でロデス空港まで1時間15分。空港からタクシーで15分。
Musée Soulages Rodez
Adresse : Jardin du Foirail, Avenue Victor Hugo, Rodez , FranceURL : musee-soulages.rodezagglo.fr/
8月31日までは無休。月:14h-19h 火〜日 : 10h-19h