フロベールの『感情教育』(1869年)の主人公は、ノルマンディー出身の青年フレデリック。船上で出会ったアルヌー夫人にひとめぼれをしたフレデリックは、夫人への手がかりとして、まずはパリの著名な画商であるアルヌー氏に近づこうとする。
フレデリックが夫人に再会するまでの時間はなんとも長くて、読者には、青年と一緒にパリのあちこちを訪ねる心の余裕が求められる。凡庸な青年フレデリックは、特に何に打ち込むでもなく、学生なのにたいして勉強もせず、確たる目的も持たずルーヴル美術館を訪れたり、芝居を見に行ったり。夫人にあてた恋文を長々と書いても、それを送る勇気も出ない。子どもと散歩をする夫人と偶然会えるかも、とチュイルリー公園を散歩したりして、ふらふらと日々を過ごしていく。
ある朝、とうとうアルヌー家に招かれたフレデリックは、新調した服で緊張しながら夕食に臨む。中世の談話室のように革張りになっている食堂には、見るも心が躍るようなご馳走が並んでいた。「マスタードをとるにも十種類の中からえらばねばならなかった。ガスパッチョ、カレー、しょうが、コルシカのつぐみ、ラザニヤなどを食べ、リップフラウミルヒ( 「liebfraumilch」とは「 聖母マリアのミルク 」の意味で、ライン川左岸のヴォルムスで造られる白ワインのこと)やトカイワインなどの珍しい酒を飲んだ」。
青年の心を何よりも動かしたのは、贅沢な空間でも趣向をこらした食卓でもなく、そんなものに囲まれて暮らすアルヌー夫人だった。夫人からの言葉を「このひとの身にしか沿っていない特色のように」聞き、その歌声に心を揺さぶられたその日。フレデリックは、ポン・ヌフの真中に立ち止まり、アルヌー夫人にふさわしいような立派な画家になろうと決心する。(さ)