Paris 9ème, avec Georges.
ここ5年間、世界で最も上演回数が多かったオペラはヴェルディの『椿姫』。そしてモーツァルトの『魔笛』、ビゼーの『カルメン』。ベスト30に入るフランス人作曲家はビゼーだけで、31位にオッフェンバック『ホフマン物語』が入る。1875年の初演以来ヒットチャート上位を占める『カルメン』だが、初演は酷評にさらされ、ビゼーはその3カ月後に死んだ。
ビゼーの足跡をたどってみると、パリ郊外のヴェジネやブージヴァルの「田舎の家」を除く殆どが、19世紀に芸術家やインテリが住んだパリ9区の「ヌーヴェル・アテネ」地区だ。ビゼーは1870年の普仏戦争の時でさえ、サン・トゥアン=クリシー防塞でパリ防衛にあたりながら、休憩になると仲間を連れて帰宅していたという。その家がデュペレ通り。今は、夜になると重厚な扉が開き、赤い灯りのなか、カクテルや自家製ジンで幻想にひたれるバーLe Carmenになっている。
入学年齢に満たない9歳でパリ音楽院に入り、母親仕込みのピアノの腕をリストやベルリオーズに称賛されるなど、ビゼーは幼少期から音楽的に磨かれていた。父は理髪師から作曲家に、叔父は歌手、叔母は音楽院でソルフェージュを教えていたし、作曲をフロメンタル・アレヴィー(オペラ『ユダヤの女』など。のちに娘・ジュヌヴィエーヴと結婚)に習った。初めての交響曲は17歳で作曲、18歳でオッフェンバック主催のコンクールで大賞、19歳でローマ賞を得て奨学生としてローマに滞在、作曲をしながら、人生の春を謳歌した。
ビゼーの目標はオペラで名を成すことだった。当時フランスでは歌劇での成功こそが作曲家の王道とされていたのだ。1863年『真珠採り』、 66年『美しきパースの娘』などは上演されたが、ビゼーは納得しなかった。オペラ・コミックから依頼された『カルメン』はドン・ホセを誘惑する自由で官能的な女性像などが、保守的なこの劇場の観衆にはスキャンダラスに映り、最終幕では拍手もなかったと言われる。
失意のビゼーはブージヴァルの家に静養に赴き、セーヌ川で泳いだ数日後に死んだ。ペール・ラシェーズ墓地には、シャルル・ガルニエがデザインしたビゼーの墓碑がある。墓前に「メルシ、ムッシュー。『カルメン』は素晴らしい!」不朽の歌曲を讃える手書きのメッセージが置いてあった。(六)
バスチーユ・オペラ座での『カルメン』公演
3/7~7/16。http://www.operadeparis.fr/en/
パリ9区 、ビゼーゆかりの地を歩く。
❶ 26 rue de la Tour d’Auvergne
❻ Notre-Dame-de-Lorette
❾ Opéra Comique
◉ Maison de Bougival(地図外)
◉Cimetière du Père Lachaise(地図外)