人の胸の中には種々雑多な思いがいっぱい詰まっているが、それを言葉で伝えるのは難しい。それでも、捉えようのない感情や状況を緻密で正確に浮き彫りにできる名人たちがいる。 そのひとりはプルーストだ。『失われた時を求めて』のなかに、 気まぐれに変化する階層社会の図式に人々が自分をどう組み入れようとしているのかを描いた部分がある。そこには、特定の時代や階級に限られない、誰しも身に覚えのある心の様子が見てとれる。
「人生の異なる時期にその時点で出会った環境とあらたに絆を結んだり再び絆を結びなおしたりして、その環境で大切にされていると感じるたびに、われわれは当然その環境に愛着をもちはじめ、人間としての根をおろすのである」*この一節を読んで、慣れ親しんだ生活の場からヨーロッパへ逃れて来た大勢の難民たちのことを考えた。 いつ再び愛着が持てる環境にほっと根をおろせる日が来るのだろう。 いっぽう、記録的な数の難民に自分たちのアイデンティティが壊されてしまうのではないかと恐れをなすヨーロッパの姿もある。
先日、国連難民高等弁務官事務所の親善大使を20年以上勤めるソプラノ歌手のバーバラ・ヘンドリクスがラジオでインタビューを受けていた**。彼女は、個人のアイデンティティは決して失われるものではなく、集団のアイデンティティも自分たちの価値観の中にあり、その価値観も失われるものではないと語る。また、未知の人々への恐れを理解しながらも、恐れは憎悪の原因にもなると指摘し、難民だけでなく恐れている人々にも目を向けるべきだと、誰にも公平なまなざしを注ぐ。アメリカの公民権運動が盛んな頃に少女時代を過ごしたヘンドリクスは、「自由は与えられるものではなく勝ち取るもの。それぞれの世代がそれぞれの戦いの目的を見つけ、その戦いに勝たなければ 」という。ただし「 決して戦いは終わらないけれど…」と加えることを忘れない。
平和への道には終わりがないと覚悟を決め、今の世代が抱える複雑な状況から目をそらさずに、人々の胸の中にある思いを読み取りたい。(仙)
*マルセル・プールスト『失われた時を求めて』第2篇 『花咲く乙女たちのかげに』吉川一義訳 岩波文庫
**www.franceinfo.fr/emission/un-monde-d-idees/2015-2016/un-monde-d-idee-2015-2016-du-29-02-2016-29-02-2016-09-55