プルーストが愛した17世紀のオランダ画家、フェルメールの作品に『牛乳を注ぐ女』という名作がある。窓からそっと差し込む光の中、大きな壷に入ったミルクをテーブル上の入れ物に黙々と注ぎ込むその女性像から、『失われた時を求めて』に登場する、語り手一家のメイドであるフランソワーズを思い出すのは私だけだろうか。
フランソワーズは、全編を通して語り手の近くでその気持ちの良い生活を支えているキーパーソンである。語り手は、若鶏をつぶすフランソワーズの野卑な姿に身震いするものの、この料理上手な女中によって「あんなにとろみをつけ、あれほどやわらかく」焼かれた若鶏から漂う香気は「彼女の美徳の一つがもつ固有のかおり」として残り、彼女の性格についても、まずは優しさが記憶されることになる。
語り手は「農民のあいだには、精神は素朴であるが、上流社会のすぐれた人たちと同じ人間がいるのではないか」と問うているが、故郷では兄が乳牛を飼っているような境遇であるフランソワーズは、その典型的な例だったのかもしれない。そういった「教養を受けた多くの人たちよりもいっそう自然に、いっそう本質的に、すぐれた天性につながっている」とされる人たちの中のひとりであるからであろう、フランソワーズは語り手の創作を最も身近で見守る理解者としての一面もあった。晩年、語り手が部屋に閉じこもり執筆に打ち込む姿を見て、家の老使用人頭がある種の憐れみを抱くのに対して、フランソワーズは「語り手の仕事に対する幸福を見抜き、また尊敬もしていた」。身分も職業も違うこのふたりの間には、「芸術家」同士の同朋意識さえ感じられる。(さ)