ポーランド南部オシフィエンチムに造られたナチス強制収容所最大のアウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所を1945年1月27日、旧ソ連軍が解放して60周年。戦後初めて44カ国政府代表と約2千人の生存者が同収容所の「死の門」の前での追悼式典に参加。生存者の参加はこれが最後になりそう。
シュレーダー・ドイツ首相は、「ドイツを代表して犠牲者と生存者たちに「恥」の念を伝えたい。…ナチズムは人間が望み、人間がつくったイデオロギーの産物であることを忘れてはならない。…この重い記憶を背負っていくことがドイツ国民のアイデンティティの一部なのだ」と言い切っている。
ナチス占領下、当時仏在住のユダヤ人27万人のうち7万6000人(2500人生還)を強制収容所に送ったヴィシー政府はフランス国家とは無関係とし、国家としての責任を最期まで認めなかったミッテラン元大統領に反し、1995年、シラク大統領は、同政府をナチス共犯国家として認めている。
帝政ロシア時代から革命以降までユダヤ人迫害pogromが続いたロシアでは、第2次大戦中に70万人のユダヤ人が死亡。12世紀以降、欧州から集まったユダヤ人が330万人いたポーランドでは、その89.5%にあたる約300万人が国内で、アウシュビッツだけで95万人、他の犠牲者を含め約110万人が死亡。戦後共産政権のポーランドでは教科書にもショアについては書かれてないという。
フランスでは60年代までレジスタンスについて盛んに語られたのに対し、アウシュビッツで母と姉を失ったシモーヌ・ヴェイユ「ショア記念財団」会長によれば、当時、彼女の腕に入れ墨された囚人番号を人に見せると「まだユダヤ人生存者がいたの?」とあしらわれたという。こうした時代背景の中で家族にも語れなかった強制収容所やガス室での虐殺状況は沈黙に閉ざされてきたといえる。後世に伝えるべく「記憶する義務」という表現をヴェイユ氏は好まず、義務では伝えられない「記憶の生々しさが焼き付くべきだmemoire s’impose」と語る。
ショア記念館* 脇の高校のプレートには「ナチス共犯のヴィシー政府が強制収容所に送った児童1万1000人のうち4区から500人、その中に当校生もいた。ユダヤ人として生まれたがために」と銘記。最近ドイツのベルリン他60都市で、ユダヤ人犠牲者名と死亡地を彫った真鍮板を敷石にはめ込む動きが出ているという。記憶の風化を防ぎ、後世に原体験を伝えるためなのだろうか。(君)
*4 rue Geoffroy-L’Asnier 4e 土休。
強制収容所で亡くなった2500人の児童の写真。ある老人が従妹の写真を指し、連行時の状況を語ってくれた。
(ショア 男性名詞)
ヘブライ語で「破壊」とか「消滅」を意味する “shoah” という単語が、〈第二次世界大戦中のナチスによるユダヤ人大量虐殺〉を表すコトバとして、フランスのマスコミで使われることが多くなってきた。これまでは古代ユダヤ教のいけにえの儀式を意味する “holocauste” が使われてきたが、 “shoah” が一般的になったのは、クロード・ランズマン監督の、強制収容所生存者の証言を撮った『shoah』が公開された1985年以来のことだ。ナチスの強制収容所ではユダヤ人以外にも、ジプシー、レジスタンス活動家、同性愛者などが大量に虐殺されたという視点を保ちたい時は、 “génocide” を使うのが適切だろう。(真)