映画における真実って何だろう? 映画はしょせん作り事だから真実なんてないかというとそんなことはない。俳優が演じるを超えて物語の中を本当に生きてしまうと、それは映画の真実になる。『Poursuite/追っかけ』を観ながら、それを感じた。
監督でもあるマリナ・デアクが演じる主人公のオードレイは自分に本当にふさわしい生き方を模索している。一時流行った「自分探し」とくくってしまってもよい。ともすると自己チューで、よい感じを抱かせないタイプの女性かもしれない。7歳の息子マチューは母親に預けている。別れた息子の父親エリックと三人で休日を過ごすこともある。エリックとオードレイ、二人の冷え切った関係の中で錯綜する感情。オードレイはステファンという、こいつとなら一緒になってもいいかなと思える男と出会う。ステファンはいい奴で、マチューのことも気にかけてくれるが、オードレイはちょっと待ったをかける。彼女はステファンと二人だけの世界にいたいと言う。ステファンの家族に紹介されて、兄のパトリックと波長が合ってしまい微妙な関係に陥りそうになったり、プールで行きずりの男とセックスしたり、一方で職探しもしながら、息子のことも彼女なりに気遣い、オードレイは何かを求め何かをつかみたくて奔走する。そんな現代女性のポートレート的な本流の物語の合間に、支流的に相手方、エリックやステファン、パトリックや母親、そしてマチューの素描が介在する。ほとんどが無名の俳優たちだが、みんな素晴らしく役を生きていて、真実だ。
この監督、これが長編デビュー作だが、監督としての立ち位置が明確。映画から真実を引き出し、それを観客が受け止めれば、映画は存在する。ジョン・カサヴェテスの流れをくむとでも言おうか…。(吉)