『太陽がいっぱい』(1960年)などの映画作品で世界的に知られる仏俳優アラン・ドロンさんが8月18日、ロワレ県ドゥシー市の自宅で子ども3人に看取られて死去した。享年88歳。映画界はもとより、政界からもその死を悼む声があがった。きょう24日、自宅の礼拝堂で家族・近親者のみ50人余りが参列する司教による葬儀が執り行われ、自宅敷地内に埋葬される(生前に許可取得済み)。邸宅の門前には机の上に芳名帳が置かれ、ファンがメッセージを記し、門には多くの花束が手向けられた。
映画界の「神聖なる怪物」ドロンは1935年、パリ郊外ソー生まれ。17歳で志願してインドシナ戦争に出征した後、カンヌで映画関係者にスカウトされ1957年にイヴ・アレグレ監督の作品に出演したのが初出演(監督は「演技をするな」「自分のままでいろ」と助言したという)。ルネ・クレマン監督の『太陽がいっぱい』(1960)、伊ルキノ・ヴィスコンティ監督の『若者のすべて』(1961)、『山猫』(1963)、ジャック・ドレー監督の『太陽が知っている』(1969)などにより、稀有な美貌とその醸し出すオーラで世界的スターになった。
メルヴィル監督の『サムライ』(1967)を皮切りに、ギャング映画などのフィルム・ノワールに多数出演。ベルモンドと共演したギャング映画『ボルサリーノ』(1970)のように自ら製作にも携わった。晩年は大衆映画への出演が多かったものの、2019年にはカンヌ国際映画祭で仏映画界への長年の功績を称える名誉パルム・ドールを受賞した。
ドロンは美術蒐集もした。1969年にデューラーのデッサンを70万フランで買ったのをきっかけに、ミレーら19世紀画家のデッサン、ブガッティの動物彫刻などで、「私はパッションから(美術品を)買う。投資ではない」と言明していたというが、90年代にはコレクションは散逸した。
ドロンには政治的態度を明確にするという、映画人としては稀な側面もある。1970年にドゴール将軍の「抵抗の呼びかけ」の手稿を購入以来、ドゴール派を自認。81年の大統領選ではジスカール=デスタン氏、88年にはレイモン・バール氏、2007年にはサルコジ氏への支持を表明し、一貫して右派を支持した。一方で、インドシナ戦争で知り合ったとされる極右の国民戦線(当時)のジャン=マリー・ルペン氏との親交は50年以上続き、ドロンもその親交を隠さなかった。2013年には「FNは政界で非常に重要な地位を得ることを支持する」と発言したものの、19年には「人は私に極右のレッテルを貼りたいようだが、私は右派支持」と弁明していた。
また、2013年に同性婚が合法化された際には、同性婚は「自然に反すること」と発言。後の19年には、同性婚はいいが、子には母親と父親が必要だから同性カップルが養子縁組することには反対すると発言した。同年のドロンの名誉パルム・ドール受賞に際し、ドロンを「差別主義、同性愛嫌悪、女性蔑視」として、フェミニストたちが授与に反対した経緯もある。
しかしながら、同性愛者のヴィスコンティとの友情、共産党支持者だとしてハリウッドから追放されたジョセフ・ロージー監督の『パリの灯は遠く』(1976)への資金援助など、前時代の価値観を固辞し続けながらも、自分流の矜持(きょうじ)を保った人なのかもしれない。(し)
☞あわせてお読みください。「ドロン家騒動」
晩年のドロンのパートナーだったヒロミ・ロランさんを、ドロンの子3人がモラハラで訴える騒ぎでは(23年7月)、ヒロミさんも暴行などの告訴で対抗した。両者の訴えは今年1月に検察に却下された。この時ばかりは兄弟の確執もお預けに。今年は新年早々から、3人の子どもたちの兄弟げんかが連日メディアで報じられた。