『 蟹の足跡(仮題) 』
Empreintes de crabe
パトリス・ンガナング著 / Editions JC Lattès刊
カメルーン、戦争の記憶。
元医師のニタプは、カメルーン西部の故郷バングアで隠居生活を送っていた。彼はアメリカに暮らす息子タヌーの要望で、海を渡って未知の国を訪れる。大学で教えアメリカ国籍まで取得した息子は、病気の父を放っておけなかった。そして彼には、どうしても父から聞きたいことがあったのだ。長い間ずっと父が口を閉ざしてきた家族の記憶、カメルーンという国が抱える暗い過去、すなわち、父が参加したという独立戦争の歴史について……。
60年代、アフリカの国々が独立を果たしてゆくなかで、カメルーンはいわゆる「ブラック・アフリカ」のなかで唯一、武力による独立運動の激しい弾圧が為された国だ。非戦闘員を含むおびただしい数の人々の血が流れ、独立運動の中心となった政党・カメルーン人民連合(通称UPC)の指導者たちは仏政府により次々に暗殺された。この物語に登場するエルネスト・ウアンディエもその一人で、71年に銃殺された彼は「最後の」指導者と言われている。そしてニタプは、彼の主治医だったのだ。物語は、ニタプの過去とタヌーの現在が交互に語られながら進んでゆく。
政府によって非合法化され、50年代から武装闘争を行っていたUPCに対する戦争は、実は独立後まで続いた。とりわけ標的とされたのは反乱軍の温床とみなされていたバミレケ族だ。ニタプもまたそこに属したが、彼はもとから闘争に参加したわけではなく、医師であることを理由に戦傷者の治療のため反乱軍から誘拐された。こうして強制的に作られた反乱軍との共犯関係から、彼は闘争の中に身を投じていくことになる。
隠された過去。
植民地カメルーンのフランスからの独立は1960年。しかし独立後のカメルーン社会でこの戦争の歴史はタブーとされた。フランスの手引きによって成立したアヒジョ政権にとって、独立運動の英雄たちの物語は、自身の正当性を脅かす障害でしかなかったからだ。それゆえ検閲が横行し、この物語のニタプのように、人々はこの過去について口を閉ざすようになったのである。
フランスでも、どの歴史書にも書かれてこなかったこの戦争はほとんど知られていない。2009年の時点で、当時の首相フランソワ・フィヨンは首都ヤウンデを公式訪問した際、カメルーンにおける暗殺への仏軍の関与について「全くのでっち上げだ」と言い張れたぐらいだ。一連の出来事が広く知らるようになったのはごく最近のことである。フランスの世論を大いに賑わせたアルジェリア戦争の影で進行したこの出来事は、当時から人々の関心を引かず、いまでは「隠された戦争」とさえ呼ばれている。
果たされぬ夢と終わらない戦争。
この本を書き終わった数日後、著者ンガナングはカメルーン滞在中に逮捕され、パスポートを剥奪された後に国外追放となった。表向きはフェイスブック上で書かれた現大統領ポール・ビヤへの脅迫が罪状だったが、実のところ、著者が以前から発信していた現政権への批判、とりわけ英語圏であるカメルーン西部で現在も続いている危機(分離主義勢力と政府軍との対立)に対する政府対応への非難が原因となっているのでは、と推察する人々もいる。植民地支配の残滓(ざんし)である一国内での言語的対立が、いまこの国で新たな内戦となっているという現実……。カメルーンの戦争は、まだ終わっていないのである。
決して読みやすい本ではないが、過去の歴史から現在の社会を射抜く渾身の一冊。ちなみに、表題の「蟹」とは、UPCのシンボルだ。彼らの夢、それはカメルーンの独立、そして二つに分離されたこの国の統一だった。その夢は、いまも果たされていない。(須)
パトリス・ンガナング
1970年カメルーンの首都ヤウンデ生まれ。2001年発表の『Temps de chien』でマルグリット・ユルスナール賞を受賞。現在はアメリカの国籍を取得し、同国の大学で教鞭をとる。