プラスにしろマイナスにしろ、無駄なものはないのだ。
少年時代は落ちこぼれの不良青年だった遠藤周作。寮の仲間や同級生たちを相手に持ち前のユーモアといたずら心を発揮している。たとえば、あるパーティーでのこと、女学生たちに「どうしてフランスにいるの」と訊かれた。
遠藤:親愛なる友人たちよ、実は日本でふたり人間を殺しましてね。警官に追われてここにかくれにきた。
女学生:まあ、自首して頂戴、エンドー。それは大変な事よ。大変な事よ。
もし、「カトリック作家・遠藤周作」の素養が宗教都市、対独レジスタンスの中心としてのリヨンで培われたのなら、「ユーモア作家・狐狸庵先生」の笑いのセンスは、ラブレーの『ガルガンチュア』や人形喜劇ギニョールを生んだ風刺と諧謔の都リヨンで磨かれたことになる。
思い切り学び、そして遊ぶ。しかし、そんな充実した留学生活に暗い影がしのびよる。肺結核の病魔である。留学2年目に入った1952年、遠藤は血痰を吐く。そして、サヴォア地方の国際学生サナトリウムで3カ月の療養を余儀なくされる。ここで一緒になった学生たちと「パリで文学グループを立ち上げよう」と誘われた遠藤は、退院後にリヨンを去りパリに移る。このグループで知り合ったのがソルボンヌ大学の哲学科の学生だったフランソワーズだ。だが彼らの恋は長くは続かない。遠藤の病状は回復せず、ポール・ロワイヤルにあるクロズリー・デ・リラの2階でフランソワーズにプロポーズをしたわずか2週間後、遠藤は3カ月足らず滞在したパリを離れる。フランソワーズとともにマルセイユまでの道中をともにした遠藤は、けっして彼女にふれることなく、ひとり船で帰国する。
フランソワーズは遠藤と再会し結ばれる日を待ち焦がれ、東洋語学院で日本語を学びはじめた。しかし、彼が日本で結婚したことを知ると健康を害した。66年から70年まで日本にフランス語教師として滞在し、札幌大学や獨協大学で教鞭をとったが、71年に乳癌のために41歳とういう短い生涯をとじている。
遠藤が無責任であったとか、フランソワーズは思い込みが激しいなどという論議は無意味でしかない。ただ、数年前まで敵国同士にあった日本とフランスの男女が一緒になるということには、今では想像もつかないような困難がともなったことは確かだろうし、この甘くも苦い困難な体験がなかったら膨大な遠藤の文学作品と1冊の和仏辞書は生まれなかったにちがいない。
「弱い性格と卑怯な心をもったけれども、やっとこのフランスで初めて自分が人間の幸福に仕える仕事を見出しかけたのだ。生きたい」。
遠藤の日記に記されたそんな言葉を思い出しつつ仰ぐ初夏のリヨンの空は、「青春」という「青」という字にも、『スタンダード和仏辞典』の表紙の色にも似て、高く澄みわたっている。
やっとこのフランスで初めて自分が人間の幸福に仕える仕事を見出しかけたのだ。生きたい。