東洋語言語文化学院の図書館で翻訳原稿の読み合わせをしていると、フランス人の相棒がおもむろに机上の『スタンダード和仏辞典』の青い表紙をひらいて言った。「この辞書は遠藤周作の匂いがする」と。彼と結びつきの深いフランス人が2人ほど編纂メンバーに名前をつらねているのだ。ひとりはFrançoise Pastre。遠藤がプロポーズをしたといわれている恋人であり、もうひとりのGeorges Neyrandは、その半生を神父として日本での布教にささげた、遠藤の盟友である。
かつて遠藤が留学したリヨンには、いまでも彼をしのぶ場所が数多く残っている。ローヌ河に面した大学の校舎。遠藤はここの文学部に籍を置き、『フランソワ・モーリヤックの作品における愛と吝嗇(りんしょく)』というテーマで学位論文を書きはじめる。大学の近くにあるレジスタンス博物館は、ドイツ占領下、ゲシュタポの司令部だった。まだ戦時中の記憶が生々しかった当時、遠藤は学生仲間からこの建物の中で繰り広げられた残虐行為の噂を耳にした。それが後に芥川賞受賞作品『白い人』の下地になった。
河をはさんで向かい側、ローヌとソーヌの中洲にベルクール広場がある。リヨン滞在中、何度か転居をくりかえしながらも、遠藤は町の中心ともいえるこの界隈に住みつづけた。
遠藤の留学は、かのザビエルの日本渡来400周年を記念して、カトリック教会や上智大学の教授などの篤志家が資金を集めて実現されたものだった。敗戦の焼け跡からまだ完全に立ち直っていない日本からの仕送りは乏しかった。とくに狭い下宿でむかえる冬は厳しかった。ある夜、遅くまで勉強していて、インク壷にペンを浸すと、インクが中で凍っていた、といった逸話を彼は後年になって語っている。
遠藤がそこまで刻苦勉励したのは、ひとつの決意があったからだ。当初フランス文学者としての将来を嘱望されて留学生に選ばれた。が、このリヨンで人種や戦争責任など、人間の根源にかかわる問題に直にさらされて暮らしていくうちに、みずからの信仰するカトリックへの思い入れが強くなっていった。単なる学術的な関心では物足らなくなった彼は、研究者としてではなく、作家として人生を歩もうと決意する。2日に1冊というペースで膨大な量の文学作品を、それも1冊1冊、解剖するように分析して読み込んでいく。作品の舞台となった場所に足を運ぶ。彼の『作家の日記』にはそんな自己改造の過程が克明に記されている。
だが作家になることを志したとはいえ、しかめっ面をして机にかじりついてばかりいたのではない。日本人が両手で数え切れるほどもいなかった当時のリヨンで、彼はフランス社会の中へ縦横無尽に入り込んでいく。学部を問わずフェットがあれば顔を出す。リヨンに隣接する労働者の町Villeurbanneの労働者夫婦に夕食に招かれたりもしている。とくに留学当初に住んでいた「クラリッジ寮」での学生たちとの付き合いは、戦争で青春を謳歌できなかった彼にとって、遅ればせながらの自由をもたらした。