フジタとパリと女性たち。
1913年、27歳の藤田嗣治は、前年に結婚した鶴田登水子を日本に残してパリにやって来ます。
モンパルナスのホテル・オデッサや、ヴァンヴの川島理一郎のアトリエに寄宿。今は線路沿いの緑地になっているモンパルナス駅南のアトリエを経て、1915年に、親しくなったモジリアーニやスーチンらと、モンパルナス駅東のシテ・ファルギエール14番地のアトリエ長屋に落ち着く。(14 Cité Falguière14e)
1916年、第一次大戦の激化で送金が止まり、ロンドンに避難。
1917年、パリに戻り、モデルのフェルナンド・バレーと2度目の結婚。ドランブル通り5番地に住みます。
(5 rue Delamble 14e)
ここはモンパルナス狂乱の時代の中心地ヴァヴァン交差点のすぐ近く、”乳白色の肌”が評判になって一気にモンパルナスの寵児となったFoujitaは、Foufou (フーフー、今で言うとチャラいやつ)と呼ばれます。
1918年にカフェ・ロトンドで、リュシー・パドゥ(Yuki)に出会い、後に3度目の結婚。
1924年、売れっ子Foujitaは、ユキと16区の高級住宅地に住んだけれど、1927年、モンパルナス近くに戻り、スクアール・モンスリ3番地の、ペレ設計の家に住む。(3 square Montsouris 14e)
1930年、新しい愛人、モデルのマドレーヌ・ルクー(後に4度目の結婚)と15区のラクルテル通り6番地に移転。(6 rue Lacretelle 15e)
1931年、恐慌でフジタの人気も凋落。マドレーヌとともに南北アメリカを巡回した後、33年日本に帰国。35年に堀内君代と出会い、マドレーヌが急死後の36年に5度目の結婚。一時パリに戻るが、戦争の激化で再び帰国。
多くの戦争画を描き、戦後に非難の的とされてしまう。
1950年、「日本を捨てたのではない、日本に捨てられたのだ」と、パリに戻り、思い出の地ヴァヴァン交差点に近いカンパーニュ・プルミエール通り23番地に部屋を借りる。
(23 rue Campagne Première 14e)
1955年にフランス国籍を取得。1961年、終の住処ヴィリエ・ル・バクルに落ち着いたのだった。
レオナール・フジタのアトリエ住居
La maison-atelier Léonard FOUJITA
7-9 route de Gif 91190 Villiers-le-Bâcle
☎︎ 01 69 85 34 65
入場無料、ガイド付き(日本語のオーデイオ・ガイドあり)
1回5人以内。
土曜:14時~17時、日曜:10時~12時30分/14時~17時30分
平日は事前に人数(5人まで)と日時を予約。
パリからの行き方
RER・B, Massy-Palaiseau下車
進行方向左のバスターミナルから91番St.Quentin-en-Yveline行きで Rond Point Maison Foujita下車(マッシーのバス乗り場には逆方向のバスも止まるので行き先を確かめること)。
より近い Gif-sur-Yvette駅からのバス10番(Buc行き)なら10分ほどで着く。Place de la Mairie de Villiers-le-Bâcle 下車。
ただし、平日のみで土日は運休