Q:パリにいらしたのは1989年。
宇井土:確か7月でした。
Q:では、革命200年記念祭のパレードもご覧になった?
宇井土:その5年ぐらい前、確か20歳ぐらいからフランスへ来たかったんです。なかなか情報も入ってこないので、自分で見つけたり先輩から流してもらった情報が頼りでした。それで突然「ディジョンに場所がある」と言われて無我夢中でフランスへ来て、空港へ着いたらそのままディジョンへ向かいました。だからパリを観る余裕もなく、ディジョン到着の次の日から働き始めました。
Q:その前、お料理は日本で?
宇井土:最初のきっかけになったのは、アルバイトです。高校時代に小遣いが無くて、親から「小遣いが欲しいならアルバイトしろ」と言われ、たまたま入ったのがボルツという辛いカレー屋でした。そこで働いていた親方が、精養軒で洋食を作っていた人で、その人から賄いの料理を作る際にオムレツの作り方とかフリカッセを教えてもらったりした。おかげで料理に自分でも興味を持ち始め、学校もそれほど好きではなく、行ったり行かなかったりしてクビになってしまったので…
Q:学校をクビになる!?
宇井土:そうそう。グレちゃうかと思ったら、アルバイトだけには行く。そうしたら親方が「お前、学校へ入ったなら出なきゃダメだ」と言うんです。親に言われても「うるせえな」としか思わなかったのに、親方に言われた時には「仕方ないな」と思えた。そこで定時制高校へ行きました。昼間は働いて夜に学校へ行く。卒業した時に親方から「お前、洋食か和食か、どちらかを選べ」と言われて、和食は日本のものだしなあと考えて「洋食にします」と。それで、当時銀座にあったバラライカというロシア料理有名店のシェフに紹介してもらって銀座木村屋の洋食部門に入りました。ただそこへ行く前に、木村屋が慶應病院内に持っていたレストランへ最初は送られた。
Q:千駄ヶ谷の慶應大学病院?
宇井土:そうです。そこでもフレンチのビストロみたいな料理を出していた。それから本店、銀座へ戻ってきたらシェフがフランス帰りの人だった。その人の「寒い時にスープ・ア・ロニオンを食べた、あの味が忘れられない」というような言葉を、意味はわからなくても「ほお、そうか」と聞いていた。 その後はベルコモンズの小さなイタリアンでシェフのようなこともしてみましたけれど、自分の力のなさを感じました。すでに頭の中にはすでにフランスへ行きたいという気持ちがあったんですが、目白のリッチモンドホテルへ入れてもらえたので3-4年働こうと思っていたところで、フランスへ行く話が来てしまった。だから「しょうがない」と辞めて、ディジョンへ。
Q:東京はどちらですか?
宇井土:世田谷です。俺江戸っ子なんです。
Q:そうですよね、口調でわかります。
宇井土:そうですか?亡くなった親父が神田生まれ、お袋は越中島、深川生まれです。で、俺は三軒茶屋、三茶です。昔はまだ原っぱがあって、歩道橋へ登れば富士山が見えました。まだチンチン電車が渋谷まで走っていた、今の半蔵門線ができる前です。
Q:カレー屋さんでバイトをする前にも食に興味はありましたか?
宇井土:とにかく小遣い欲しさでアルバイトをしただけ。そこで偶然、食に開眼する。カレー屋のバイトではサービスと調理場の両方をしていて、同じ経営の五右衛門というラーメンチェーンでも働きました。渋谷の宇田川町とか宮益坂あたりの店や、自由が丘や町田の店にも行かされたことがあります。興味を持ってからは自分で「シェフ・シリーズ」というような結構高価な本を買って辞書を引きながらレシピなどを読んでいました。
ディジョンの店はLe Pré aux clercsという有名な店でした。住み込みで入れてもらう、という以外店に入れる方法はなかったです、当時は。
ディジョンの後にはNeuilly-sur-SeineヌイイーにあるLes Feuilles libresという店、その後にLa Côte Saint-JacquesというJoignyジョワニーにある店などへ行きました。Les Feuilles libresから2度目に来てくれと言われた時には、今度はアパートを世話してくれ、と頼みました。なぜなら最初の時には部屋がなくて、パリ9区のPoissonnièreというメトロ近くの小さくて汚いホテルに確か月2500フランで暮らしたんです。月給が2500円ぐらいの時代です。結構きつくて、たまに電車に乗り遅れるとヌイイーからまっすぐ、そのまま シャンゼリゼを降りてずーっと歩く。だから2度目には部屋を世話してください、とお願いした。紹介してもらったその小さい部屋の、小さな窓から凱旋門が見えたことが今でも良い思い出になっています。そこで生まれて初めてテレビを自分で買いました。400フラン。
Q:小さくて叩かなきゃ観れないテレビ?
宇井土:そう。長いアンテナが後ろについていて、休みの日には何時間もかけて「いつ映るかな?」とアンテナをいじっていた。そういう風に、自分なりに楽しんでいたと思います。絶対に負けちゃいけない、という気持ちもあった、大切です。ハングリー精神は持っていないといけないです。
Q:日本へ帰りたいと思ったことは?
宇井土:あまりないですね。今、俺の歳になると年に一度は親に会いに帰ろうとは思いますけれど、昔はそういう余裕もなかったし、帰るよりも他の場所を見たい、という気持ちがもちろん強くて。でも今は帰っても暮らそうという気にはなりません。もう、日本で暮らしていこうという気持ちにはなりませんね。
Q:特に東京には、ですか?
宇井土:そう。はじめ親には「ちょっと出かけるから」と言い「どこへ行くの?」と返されると「フランス」「えー?」「いつ行くの?」「明後日」という感じでしたね。
その後4年間、一度も帰りませんでした。やっぱりそういうポーン、というか、何かのきっかけから掴まないとね。無我夢中でしたし、帰るという気持ちを持つ前に結構いろんなことをしました。本当に遊びました。働いて、遊ぶ時には遊ぶ。
Q:どういう風に遊ぶんですか?
宇井土:「遊ぶ」という言葉を使って今改めて思ったんですけれど、今外国から来る料理人は「パリへ行く」と言うんですね。でもパリというのは首都であってフランス全部ではない。パリは楽なんです。もちろん俺だってパリにはなんでも、和食でもカラオケでもなんでもある、と思ってはいますけれど、それを求めて最初はフランスに来たわけではない。田舎に行くと、もっと面白いことがあります。最初ディジョンへ行った時には、店の同僚が「一緒に踊りに行こう」と言うので踊りに行って、その帰り、夜中の4時 、5時にパン屋の裏口を叩いて出来たてのクロワッサンをもらって家に帰るというようなことが「これが田舎の文化だ!」と都会に生まれ育った人間には本当に新鮮な体験でした。そういう風景に出くわすと「いいなあ」と思う。
その後はJuan les Pinsジュアン・レ・パンのLa Terrasseへ。二つ星をもらっていた時代でした。そこで働いた時は朝8時から零時までほとんどノンストップでしたけれど、1時間ほどもらえる休み時間にはすぐ目の前にある海へ走って行って潜っていました。夜にしても、疲れていても外へ遊びに行く、とか。息抜きはしていました。
ニースまで遊びに行ってヒッチハイクして帰宅する、ということもありました。その次に行ったのが、トゥールとシノン、ロワール河流域のSaint-Epainサン=テパンという人口が200人ぐらいの小さな村でした。Château de Montgogerシャトー・ド・モンゴジェーという城があって、住むのは社長と俺の二人だけ。
Q:シャトーの中にレストランがあった?
宇井土:そう、シャトーレストラン。部屋もあったんです、7-8部屋ぐらい。そこで俺が料理を作っていましたけれど、本当に暇で。表でサービスをするのがクリストフ、下で雑用をするのがディディエという若者でした。社長はお酒が大好きで、僕にガブロッシュという名前の犬を任せて朝起きたらトゥールまで酒を飲みに行って帰ってこない。 17ヘクタールの場所ですよ、そこに一人。夜中に「しょうがねえ、誰も帰ってこないから一人で酒でも飲むか」と飲んで、酔っ払って一人で歌を歌ったり…
適当に発散することを知らなければダメです。でもこういう孤独の中で生きていくことを僕は楽しんでいました。こんな風に全く日本、日本人からシャットアウトされた中に何ヶ月、何年もいると言葉も覚える。やっぱり、言葉を覚えないと喧嘩も出来ないですよ。ディジョンにいた時には冗談のレベルにもついていけなかった。店の若い奴が「上を見ろ」と言うので上を見たら、その隙に俺のズボンの中に漏斗を使って水を入れたんですよ。俺は怒ってそいつをひっぱたいた。そしたら給仕長がやってきて「こいつは気が狂ってる」と言われても、自分で何も言い返せないんですよ。自分の行為の説明すらできない。フランスってのは日本と違って「暗黙の了解」なんてものがない国で、言わなきゃ終わり。病気になっても言わなければ放っておかれるぐらいだし、それが当たり前。それからいくら言ってもできなければ認めてもくれない。そういうことが少しずつ分かってきました。だからいい面だけではなかったし、悔しい思いをしたこともたくさんありました。でも悔しいからって引き下がるわけにはいかない。だから闘うためには語学が大切だと思いました。とはいえ時間もないし学校へ行く金もないので、休みの日にディジョンの映画館でちょうどかかっていた松田優作出演の「ブラック・レイン」(リドリー・スコット監督)を朝から4回連続で観たりしました。
Q:フランス語への吹き替え版?
宇井土:そうです。とにかく一言だけでも何かフランス語を理解してやろう、と思ってね。そういう風に少しずつ言葉を学びながら、何年か経ってそのモンゴジェーという城へ行く頃には自分の思うことが少しは言えるようになっていました。ここでは休みの日には下にある町の子がUIDO !って呼びに来て、遊びに連れて行ってくれる。ある日シノンにあるディスコへ行こうぜ、ということになったんですが、表は真っ暗で何も見えない。「どうやって行くんだ?」と聞くと「空を見てみろ」と相手は答えるので上を見たら赤い光が出ている。「この光の線を追っていくとディスコに着くんだ」
Q:ディスコが出す光!
宇井土:そう。田舎だから営業してる店が光線を出して客を誘導する。で、その光を追って行くと、気がついたらディスコについているんですよ。マジで。
Q:どのぐらいの時間?
宇井土:車で1時間近くかかったのかな。帰り道ではいきなり「ドーン!」と音がしたと思ったら、運転してた女の子がいきなりブレーキを踏んで「あ、何か轢いちゃったわ」って。ウサギでしたが、その子はウサギをトランクに入れて「明日お母さんに料理してもらおう」と言うんですね。「大変!どうしよう!」じゃなくて「ラッキー!」という感じでした。僕もそのウサギ料理のご相伴にあずかりました。
カフェなんかへ行くと « T’es qui, Chinois ? » (お前は誰だ、中国人か?)とよく言われたので、いつかは俺もなんか言ってやろうと思って、フランス人に « T’es qui, Belge ? »(お前は誰だ、ベルギー人か?)ってね。そういうことも本当に楽しかったですね。とにかくいい面も嫌な面もとにかく自分のものにして、仕事ででも日常ででも活かせるようにしました。
食生活でも、フランス料理を作っているんだからフランス人家庭で普通に食べられているものを知らないのはもったいないと思います。ラディッシュでも普通の家庭に行けば、塩とバターで食べるじゃないですか。僕なんかはそれを見るだけで「文化だなあ」と思いました。フランス料理をやりたくてフランスに来ているフランス料理人というのは、やっぱり文化とある程度の言葉は理解しなければ意味がないと思います。そうでなければ客と話もできないし、業者や生産者との対応も難しい。おまけに自分の視野も広がってくる。僕なんかは、日本人以上に日本人意識の強い日本人かもしれないけれど、フランスの文化は知っているよ、と。
サン=テパンの城の後に、今度はSaint-Léger-en-Yvelinesサン=レジェいう町、ランブイエの森近くにあるAuberge de belle aventureというところへ。
Q:なんだか素敵そうなお店。
宇井土:ええ、そこで妻に会いました。社長が有名なシェフRaymond Oliverレイモン・オリヴェ(1909-1990)の娘でした。僕はその店へシェフの話があるというので行きました。妻はmaître d’hôtel給仕長として店に入ってきて
Q:美しいアヴァンチュールが始まる?
宇井土:そう。一緒になって、6-7年働きました。その後二人で何かしたいな、と思って
Q:ここへ?
宇井土:そうです。たまたま働いていた店も売りに出たので、いい機会だから自分たちでそろそろ何かを始めるか、と。最初に見た物件がここで、その後もあちこち見ましたが結局ここへまた戻ってきた。
Q:ここは前もレストランだった?
宇井土:そうです。ただ、正直なところお金がなくて。なぜここか?とお客さんにも聞かれますが、ここが買える値段だったということと、買ってすぐ営業できたからです。工事なしでとにかく入って仕事を始められる。借金を7つぐらい抱えていましたから、1か月や半年も改装のために店を閉めることは現実的にできなかった。火曜日に引っ越して、同じ週の土曜日にはオープンしました。それで最初の頃は日曜日も営業して、閉めたのは確か月曜の夜だけです。厨房は僕が一人、サービスは女房だけ。
Q:それは2000年ぐらいのこと?
宇井土:2001年です。最初はランジスへ夜中に行ったりしていましたけれど、今はこの町のマルシェで魚と野菜は買っています。軌道に少しずつ乗せてから、洗い場に人を入れたりしました。銀行でお金をまた借りて改装費に充てるということも、少しずつです。
Q:パリから電車で片道40分、小さな旅のようで新鮮でした。
宇井土:ここはとてもいいところなんです、一等地。
Q:そうですよね、もともとヴェルサイユにつながる王様の森があった町ですね。
宇井土:店のあるこの辺りはVieux Marlyといって、保護されている場所です。パラボラアンテナはつけられないとかファサードにしても勝手なことはできない。
妻と二人でいつも思うんですけれど、ここを持ってよかったな、と。これは僕のメッセーですが、「お前たちはでかい財産がなければ何もできないのか?」と言われるとそんなことはない。小さい店でも1年も5年も改装しなくても、そのまま入って十分にやっていけます。自分を信じて少しずつやっていけばいいということです。本当に僕は、この小さい店でよかったな、と思っています。
Q:席数は?
宇井土:20です。小さいとはいえパンにしても幾種類も自分で作っていますし、朝から晩まで仕事をしています。
Q:厨房には?
宇井土:今は一人。洗い場に一人。もう一人調理場にいたんですけれど、今はいません。あと一人入れてもいいと思っています。明日面接に女性が来ます。でも、最近は続かない人が多い。
Q:そうですか?
宇井土:一番何が残念だと思ったかというと、ワーキングホリデーといういいシステムができてから遊び半分でくる人が増えたことです。僕らの時代には紙(労働、滞在許可証)を取ってもらえるのならばその店で5年でも働こう、という気持ちでいました。夏は店が閉まるので店変え、動かなきゃならなかった。 ただし「研修だったら3年タダ働きでおいてやる」と言われるのも困る、生きていけないです。最低限の小遣いと飯を食わせてくれる店に行って、そこがバカンスで閉める時に「他を紹介してください」と頼む。正式な紙をもらうまでには結構時間がかかりました。
この前も「シェフ、拾ってください」という子がいて、話を聞いたら学生ビザしか持っていない。「研修でもいいから」と言われて「時間的に俺は合わない」と答えると「いや、それでもお願いします」と言われてそうか、と仕事を一緒に始めたのはいいんですが突然その子が消えてしまう。何かが気に入らないとすぐに消えてしまう。そういうのが一般化しては困ります。本当にやる気があるならば僕はいくらでも来て欲しいという気持ちはありますけれど、忽然と消えてしまうタイプの子が増えてきています。前にも「シェフ、拾ってください」と言われて「いいよ」と店に来た子が、突然「歯が痛い」というので赤の他人でも息子のように思って歯医者へ連れて行って治してもらったら「ありがとうございます。ワーホリで来ているので1年間頑張ります」と言ったと思えば2か月経って「シェフ、明日僕は日本へ帰ります」「なんで?」と聞いたら「彼女に会いたいです」と言うんですよ。
Q:えー?
宇井土:本当ですよ。要は、ワーキングホリデーというのはTravail – Vacances仕事とバカンスだという気持ちがあるので、外国でフレンチでも勉強しながらアルバイトができれば、という感じですか。僕たちは、この店を追い出されたら帰るところがないという気持ちでいましたけれど、今は「嫌だから帰る」ということでしょう。そういう感覚で物事を見るというのは、長い目で見たら絶対楽しくないと思います。自分の持っている力を見つける前に「もうこれ以上はできない、ダメだ」と諦める人が多くなってきたように思います。
Q:そうですか?
宇井土:やっぱり、簡単に来れるというイメージがある。六本木や渋谷感覚で、今はパリということになっている。僕なんかの世代には、フランスに住んでいるというと今でも火星に住んでいるような感覚を持つ人間がいますね。同窓会でもそう感じる。「おー、ずいぶん遠いところにまだ住んでるのか?」と言われる。
Q:私もよく言われます。
宇井土:そうでしょう?今の若い人たちはそういう感覚ではないんです。僕らの年代で「フランスに行きたかったんだけれど結局行けなかった」というような人の方が、フランスに5年や10年住んでいる人よりもよっぽどフランスのことをよく知っていることがある。長くいればいい、というものでもないと思います。たとえ3年という期間でも、ちんたら5年も6年もやる人間よりはよっぽどたくさんのものを持って帰れると思います。それからパリ以外にもフランスにはもっといいところ、楽しいところがあるんだけどな、とも僕は思いますね。郷土料理も然りです。だから僕はパリで何かを、とは一度も考えたことがなかった。
Q:全く一度も?
宇井土:考えたことがない。ただ正直な話、この場所を選んだのはもちろんここが気に入ったということもありますが、娘のことを考えたんです。当時はまだ小さかった娘をLycée Internationalリセ・アンテルナショナルに入れたかった。
Q:Saint-Germain-en-Layeサン=ジェルマン・アン・レイの?
宇井土:そう。パリには行きたくないけれど、必要ならばパリにもすぐに行けるし学校にも近い。
Le Village
Adresse : 3 Grande Rue , 78160 Paris , Marly-le-RoiTEL : 01.3916.2814
セットメニューは40€ (昼)50€、100€。 土曜昼、日曜夜、月曜定休