エピナルの町に花咲いた版画文化。
フランス語で「それこそエピナル版画!」というと、牧歌的でナイーブ、ステレオタイプで現実的でない、というような意味合いを持つ。そもそもエピナル版画とはどういうものだろう?
〈imagerie populaire〉大衆版画。
字が読めない人にも、絵の力でコミュニケートできる版画を、教会は古くから布教の道具として利用した。人々は行商人が売ってまわる聖人像を家に貼り、病気や飢えから守ってもらおうと考えた。「極彩色でやや悪趣味」と都市やアカデミックな環境では敬遠されても、田舎では「家をにぎややかにする」と好評。〈大衆版画〉のジャンルが確立していく。エピナル版画の起源はこんなところにあるのだそうだ。
モーゼル川の水、ヴォージュ山脈の木に恵まれたエピナルでは15世紀に製紙業が興った。近隣都市で作られる良質の紙と同じく、スイスやフランドルなどに輸出されるほどだった。町の中心にあるヴォージュ広場には、製紙で財を成した商人の立派な館が建っている。
エピナルの版画美術館に展示されている「エピナル地形図」(油彩・1626年)。壁で囲まれた町、聖堂、山頂の豪奢(ごうしゃ)な城。さらに目を凝らせば川面をゆく材木船、製紙場の水車、急ぎ足の職人、立ち話のブルジョワ。繁栄する町のざわめきが聞こえてくるようだ。こんな町の一角に初の印刷所が誕生したのは1616年だった。
ここではトランプや模様紙を主に生産していたが、フランス革命後にトランプの王族の絵柄が禁じられたり、宗教の影響力が希薄になると、伝統の地場産業は揺るぎ始める。
そこで現れるのがジャン=シャルル・ペルランだ。印刷業者の家系に生まれた彼は、1796年ペルラン印刷所(現在のエピナル版画アトリエ)を設立。以後、この一族が7代にわたって版画をエピナルの花形産業にまで持ち上げてゆく。
いろいろ飛びだす19世紀!
言論統制のために、印刷所を特許制にしたナポレオン。1800年、ペルランはさっさと特許を得て(一説では彼はナポレオンの弟とフリーメーソンの同じ集会所に属していた)、41年間で70作もの〈ナポレオンもの〉を発行し、大ヒットさせる。皇帝は伝説化され、同時にペルラン社の名を広くとどろかせることになった。
国政も変われば価値観も変わる19世紀。新しい社会を築くための精神的な柱として、道徳、秩序、規律、勇気などの価値観が、版画を通じて社会に広められていった。
版画はどもたちの〈しつけ〉の役割も担う。「嘘つき」「暴れん坊」など、悪い行いをするとバチがあたると諭すものや、ペローやラ・フォンテーヌなどの寓話も発行された。〈娯楽もの〉もある。切り抜いて組立てる劇場や飛行船。着せ替え人形、なぞなぞ、双六。
石版が1850年に導入されると、緻密で饒舌(じょうぜつ)な表現へと画風も大きく変わってゆく。
19世紀末には、子ども向けのユーモラスな版画、〈風刺もの〉が登場。明治時代、日本に暮らして風刺画を描いたビゴー、絵本作家のラビエほか、風刺新聞などで活躍する画家がこの新分野を切り開く。従来の規則的なコマ割りが自由になり、バンド・デシネの形式に近くなっていった。
この時代にはエピナル版画は、すっかり大衆版画の代名詞になっていた。戦争プロパガンダから、広告、おとぎ話まで、フランス国内どこで刷られてもエピナル版画というジャンルで呼ばれるようになったのだ。
エピナル版画のこれから。
写真が普及し、画像にあふれる社会。1980年代、ペルラン社は200年の歴史を閉じた。地元の経営者グループによって細々と活動が続けられてきた末、今夏、地元の投資家がアトリエを窮状から救い、再出発をきった。新しいアトリエ責任者に就任したクリスタンさんは「財政難で、機械や石・木版を売って、コレクションが散逸してしまった。それらを買い戻すことや、今ある木版1500枚、石版6000枚の版画の販売を続けること。タルディやスファールのように今活躍している漫画家と提携して新作品も作り続けたい」と語る。新グッズの展開など目標は盛りだくさんだ。(実)
1820年には、版木が長持ちするよう、木版を合金で複製。 工房では、このような版木を約1500点所有している。
一見、家具のような、行商人の木製の行李の例。
荷物を入れると50キロくらいになったという。
9色の彩色をステンシルで行う機械。 1900年発明当時は蒸気式、今は電動式で現役だ。
エピナルで作られた最古の聖人像。1664年。
今でも人気の〈ナポレオンもの〉。
切り抜いて遊べる道化役。