バルザックは若いころに事業に失敗したために一生を借金地獄の中で暮らす羽目になり、常に仕事に追われていた。1829年から1850年までに彼が書いた小説は約100作、その中の登場人物は約2500人にものぼる。一番長いときには一日のうち18時間を執筆に費やしていた作家にとって、コーヒーは欠かせない「刺激剤」だった。『ウジェニー・グランデ』などの小説の主人公たちはコーヒーを愛し、それを味う喜びを知っているが、彼らの生みの親であるバルザックにとって、コーヒーとは仕事に不可欠なアイテムのひとつだった。
『近代興奮剤考』の中で、バルザックは執筆する自分をナポレオンと比べていて、「論理の砲兵が薬籠と弾薬を持ってはせ参じる。次から次へ警句が狙撃兵のようにやって来て、登場人物が立上る。またたく間に原稿用紙はインクで覆われてゆく。戦闘に黒い火薬がなくてはならぬのと同様に、徹夜仕事もまた黒い液体の奔流に始まりそして終るのだ」(山田登世子訳)と、刺激剤であるコーヒーを飲んだ後の頭の中にアイデアが溢れる様子を描写している。
また、コーヒーの入れ方については、普通に見かける「おいしいコーヒーの入れ方」などとは程遠く、どちらかという「処方箋」のように記されている。それによると、脳を活性化させるためのコーヒーは、1)こまかく砕いた豆を、2)よく固めて、3)ごく少量の水で煎じて、4)冷やして、5)空腹の状態で、飲むことが必要だという。たしかにこうすれば、一晩くらいの徹夜は平気でできそうな気はするけど、この処方箋は、バルザックが言うように体力に自信がある方のみにしかすすめられないように思う。(さ)