「五体満足でありますように」、出産を前にこう願わない親はいないだろう。でも、もし障害を持つ子が生まれてしまったら、それは自分の遺伝子の欠陥のせい? 神様の操作ミス? それとも胎児の障害を見落とした医者の責任?
昨年十一月下旬、仏裁判所は後者を選んだ。ダウン症の子を持つ親が障害を見抜けなかった産科医に対し起こした訴えを認め、医者に賠償金を支払うよう命じた。
障害児を持たない私にはその苦労は分からない。妊娠中に障害が発覚したらその子を産むのに大きな勇気がいるだろう。この親と同じように中絶しようかと迷ったかもしれない。しかし産まれてしまったからにはたとえ障害をかかえていてもその子の安らかな寝顔を見る時、産んだことを後悔するだろうか。医者のミスを賠償金で埋めあわせれば気がすむだろうか。何だか欠陥商品に対する弁償を請求しているような響きを感じてしまう。実際、障害児がいればお金はかかるだろう。それだけなら問題は障害児手当に限られるはずだ。
が、ここでは人が存在することの権利が問われている。どの生命に産まれる権利があるのか。どういう命が生きるに価する条件を満たしているのか。その基準をどこにおくのか。そしてこれらは裁判所が決める問題なのだろうか。
時々、街でダウン症の子を見かける。彼らのゆったりした、おおらかな姿は私に何かを思い出させる。そんなにギスギス、神経質に生きなくてもいいのに…と。それだけでも私にとって彼らの存在理由は充分にある。
完璧な子しか欲しくない。性質良く姿美しく頭の良い子。それなら精子、卵子銀行がある。でも生命ってそんな要素だけで成りたっているものなのだろうか。(秀)