留学生、気付けば「在仏42年」
造形作家・嘉野稔氏のパリ近郊のアトリエに伺った。1930年、東京生まれ。“在仏”歴42年。竹やキーウィの葉が青々と茂る大きな土地に、トマトやズッキーニの実る野菜畑、住まい、そしてアトリエがある。庭の一角には、《役に立つ彫刻》、嘉野氏が作ったバーベキュー台や、羊丸焼きコーナーなどもある。<第一の人生:誕生、模型飛行機、戦争、学徒動員。造形作家としての種は蒔かれた。>嘉野少年は、東京音大の児童部でバイオリンを習っていた。でも当時の「ヌメヌメした日本の洋楽男」に教わるのと、強制されて物事をするのが嫌だった。音楽学校へ行く途中には模型飛行機の店があり、嘉野少年の創造性は刺激された。手仕事をしたい、と思った。模型作りの熱は高じて、バイオリンの月謝でベニヤ板や、糸ノコを買い、小さなバイオリンケースは道具箱になった。中学一年生の時、大平洋戦争勃発、空襲が始まった。学徒動員で三鷹の中島飛行機の工場へ仕事に行く。長距離爆撃機の部品づくりだった。「万々歳でした。ヤスリや旋盤、あらゆる仕事をさせられて、もう夢のような人生です。はりきっちゃって。はり
きっちゃって。模範学徒でした。戦争は僕の才能をくすぐってくれたんです。『戦争が僕を決定した』なんていうと、軍国主義者、という見方しかしない人もいるけれど、冗談じゃない。あの時は《お国のため》に働くのが当たり前、そうでない人たちは逆に非国民だった。特に男の子で早期疎開なんて『逃げ出し者』という見方がありましたからね。」
<第二の人生:終戦。窮屈な日本の美術界。急性心膜炎で〈一回死んだ〉1992年まで。>日本が戦争に負けた。あんなに毎日張り切っていた工場の仕事も即、なくなった。虚脱感。第二の人生の幕開け。「そして、忘れていた学校が始まるんですよ。もう、この悲しさ!」戦争に負けるような根性のない国にはいたくない、という思いが芽生えた。10年間戦地で陸軍軍医だった父親が、シンガポールでの捕虜生
活2年間を終えて帰国した。彼は、息子ふたりが医者になることを望んでいたが、嘉野青年の日本脱出願望はそれよりも強くなっていた。留学生制度があるということを教えてくれたのは父親だった。その頃、嘉野氏は日本の自分をとりまく美術界に、大きな疑問を感じていた。東京芸術大学、彫刻科の第一回生だった彼は、大学院で助手をしていた。「先輩の作品を批判したら『あいつは狂ってる』ってやられた。じゃ、表現に自由はないのか、と。そこから始まったんです『こんな国にいられるかいな!』という気持ちは。」戦後の日本にヘンリー・ムーア、マリノ・マリーニなど、外国作家の作品が入ってくる。「すると皆が傾倒する。傾倒はいいんです。でもなぜ、真似なきゃいけないか。『あれはイギリスの優秀なもの。あれはイタリアの優秀なもの。だから我々もその線でいかねば!』批評家までがそう煽り立てる。馬鹿みたい。《その時、その時の傾向の時流に乗るのが才能》という考えです。だから馬鹿な作り手たち、いや、真似手たちは『どういう方向にいったら宜しいでしょうか』と、批評家先生に頭下げておうかがいをたてる。もう、話にならない。創造なんていうものは存在しない美術界なんですね。だから、いられない!」留学生試験にパスして日本を出るほかは日本脱出の方法は無い、と考え、好きな彫刻を中断してフランス語の猛勉強をした。大学院の助手から教授になって定年まで働く、という目前のエリートコースにも疑問を感じた。「学校で教えるということが芸術家ではない、と思った。日本の社会は〈芸大教授ならばいい作家だろう〉と考える。誰も作品では勝負していなかった」そんな時、たまたま見たロマネスク美術の本が決め手となった。「こんな自由な作品がある国、その国に行きたい。日本のアカデミスムとしばしの間おさらばして、頭を冷やして、自分というものをじっくり考えたい。」と切願した。
留学生試験に受かった。1957年渡仏。フランスは憧れていた通りの、自由の国だった。「ひとの意見を聞いてから云々、ではなく、みんなが『おれは、』と我先に意見をいう。これです、フランスで気に入ったのは。日本にはそれがなかったから僕は息が詰まりそうだった。」
2年間でフランス、スペイン、ポルトガル全土、一部北イタリアのロマネスク美術を見てまわった。「留学生として迎えられ、毎月給費を貰い、もう、天下太平でした。日本にはまだ配給券がある時代、食糧難でした。それがフランスでは、学食でもメインのおかずがおかわりできる。すごい。これ以上の贅沢はないよ、と。食べ物は気に入るし、毎日の生活は嬉しくてしょうがない。今日、そして明日、もう、忙しい。(笑)忙しくて張り切っちゃって。そしたら40何年、経っちゃったんですよ。(あっはっはっはっは)面白いこと、腐るほどあるんですよ。」ジルベルテュスというロマネスク彫刻の巨匠の作品が残っているブルゴーニュ地方のオータンに5年滞在。この期間彼の作品が、あるノルマンディーの国立美術館長の目にとまり、フランス滞在わずか数年にして、国立美術館での展覧会をやった。<第三・第四の人生>:急性心膜炎で1992年に《一回死んだ》。生き返ってからは、更に「自分のやりたいことを、やりたい様にやろう」という思いが強まった。作品も変わった。それまでベニヤ板を使用しても樹脂や金属で覆っていたが、板そのものをむき出しにすることにした。1997年、心筋梗塞で《もう一回死んだ》。現在は第四の人生を生きている。「この年になると、もう何も怖くないから、言いたいこと何で
も言いますよ。」
(美)