ヴェズレーの日本人修道士
12世紀に建てられたマドレーヌ聖堂で有名なブルゴーニュ地方の村、ヴェズレー。高い丘のてっぺんにそびえ立つ聖堂のまわりに、人口500人ほどの小さな村が広がる。この村に、日本人「マルチ修道士」がいると聞いて、パリから会いに行った。聞くところによると、エルサレム修道会のダミアン・原田修道士は、教会のオルガン演奏、作曲、琴やシタールの講習を担当するかたわら、紙を漉いて絵はがきを作り、絵本を描き、放送関係の仕事もし、。日本から訪れる団体のために聖堂観光案内もする、という。
待ち合わせに現れたフレール(修道士)・ダミアンは、長い紺色の僧衣に黒のバスケット・シューズを履いていた。「私の〈逃れ場〉へ行きますか。静かでいいですよ」と、ジョルジュ・バタイユも眠るという墓場に案内してくれた。眺めがよく、草むらには野草が花を咲かせ、蜂が幸せそうにブンブン飛んでいる。「時々ここに本とコカ・コーラとか持ってきて、木陰でポーっとするんです。」のどかな逃れ場で、話を聞いた。
フレール・ダミアンは、1947年福岡に生まれた。母親は三味線、教育委員会の父親はバイオリン、祖父が大正琴をたしなんでいた。音楽教育は2歳から始まり、地唄、ギター、マリンバなどの稽古は小学校の頃からやっていた。稽古が嫌で、わざと遅く帰宅しても先生が遅くまで待っていたり、幼稚園へ行くのにわざ
とバイオリンを家に忘れて行っても、いつの間にかそれが幼稚園に届いていたのを覚えている。住んでいた福岡の田川という炭坑町から、博多や小倉まで泊まりがけで稽古に行き、翌日そこから学校へ行ったりもした。父親の役職の関係で、先生たちがよく遊びに来てお酒を飲んだり、下宿していた。たくさんの楽器と人
に囲まれて育った。修道会に入ろうと思い始めたのは高校生の頃。ジーンズをはき、ルイ・ヴィトンの鞄に楽譜を入れて通学する高校生でもあった。「フランス版の大きい楽譜を入れるのにヴィトンのバッグがちょうど良い大きさだったけれど、大学に入ったらみんなが使いはじめて、えっ、古い、と思ってやめた、なんていうこともありました。」
フランスへ来たきっかけはエルサレム修道会への入会だった。以前入っていた聖ヨハネ修道会は、病院修道会だったので、日本の神戸支部やドイツ、スペインで、養護施設、アルコール・麻薬中毒者の更生施設、ホームレスのための施設などで働いた。イタリアでは病院勤務の傍ら、大学に通った。85年頃から日本の大学で音楽理論や教育学を教え始め、日本とイタリアの二重生活になった。ところが、日本で交通事故に遭い、それまでの仕事が体力的にこなせなくなり、6年前、修道会を変えてパリへ来た。
ヴェズレーに移ったのはその翌年。オルガン奏者として修道士7人に迎えられた。今年2月に終生誓願の儀式を行った。「この修道会で、一生を清貧、貞潔、従順のうちに過ごす」ことを神に誓うものだ。この儀式に到達するまでには、何年もの修道が必要とされる。その間に院内での人間関係に疲れ、去っていく人もいれば、破門される人もいる。エルサレム修道会士の墓はフランスのソローニュ地方にある。修道士として命をまっとうすれば、そこに入ることができる。
料理にも腕をふるう。「フレールたちは最近では豆腐とか、わかめサラダをリクエストするんです。”菜の花の粗塩漬け”なんかも好きですね。教育しすぎちゃったみたい。」料理は特に習ったことはないが「母親が割烹料理店を経営していたから、こうしたらおいしいかな、とか自然にわかるような気がします。」
現在、簡単にできるフランス田舎料理の本を準備中。クナイプ療法という、ドイツに古くから伝わり保険でも認められている民間療法をドイツで学んだので、薬草、ハーブに詳しいのも強味だ。
こんな彼のことを、ある日本の新聞記者は「マルチ修道士・世界遺産を守る」と取り上げた。10日間で12都市をまわるハードな日本の演奏旅行や、弦楽器・チターの講習などで得る利益を、ヴェズレーの聖堂修復にあてている。本、絵はがき、CDなどの売り上げも修復費用になる。チター講習のスケジュールは来年の8月まで海外出張を含めて、すっかり決定している。この楽器を教える資格を持っているのはフランス国内で僅かふたり、初心者から上級まで全レベル手がけるのだから忙しい。日本人の受講者のために日本語で教則本を書こうと思っている。
目指すのは「美しく、愛しく、端正な演奏」をすること。オルガンを演奏した後で「多くの人が沈黙の海に沈んでいるような」深い静けさに、驚きと喜びを感じて涙がにじむことがあるという。修道会で作っているチターで『ふるさと』を弾いてくれた。ゆったりとしたヴェズレーの景色のように心休まる音色だった。
(美)