初めてフランス人の目に触れた日本の映像とは?
1895年に映画を世へ送り出したリュミエール兄弟は、日本へもカメラマンを派遣し、東京や大阪の様子をフィルムに記録させた。
ジャポニズムの流行があったとはいえ、目の当たりにする未知の国、日本の動く風景にどれだけ多くのフランス人が驚いたことだろう。
その後も能や歌舞伎を撮った作品がフランスで紹介されたというが、題名など詳細については定かでない。
いずれにしても、最初のフィクション作品がフランスで日の目を見るのは1920年代も終わろうとする時だった。
衣笠貞之助という映画監督がいる。もともと女形俳優として映画界入りしたが、監督に転向してからは時代劇より現代劇を好んで演出し「ハイカラ」で知られていた。
彼は、日活、松竹など大手映画会社の規制に縛られず独力で製作を行おうと、衣笠映画連盟という独立プロダクションをつくり、横光利一、川端康成など新感覚派作家たちの協力を得て、1926年に『狂った一頁』を撮影した。
精神病院を舞台に、病んだ妻を見守る夫の姿を描いたこの作品は、邦画にしては珍しく洋画封切り館で公開され、その前衛さが評判になったが、興行成績はさっぱりだった。 借金をかかえた衣笠映画連盟は、解散の運命を迎える直前に、仲間たちの「別れの記念」として『十字路』を撮影する。
1928年のことだ。
若い姉弟の悲運を描いた『十字路』は、予算が少ないせいもあったが、拾ってきたダンボールや木屑でセットを組み、ドイツ表現主義の落とし子『カリガリ博士』を意識して作られた。
出来上がった作品のコピーを持って衣笠は冒険の旅に出る。
尊敬するエイゼンシュタインの住むモスクワで、表現主義の都ベルリンで、そして映画の故郷パリで、自作の上映を行いながら見聞を広めることが目的の単独洋行だった。 無声映画だったからまだよかっが、フィルムの缶は重かったろうな、言葉の問題はどうしたのだろう、と人事ではなく心配になる。
ともあれ、パリでの上映は1929年、パプストの『喜びなき街』やシュトロハイムの『グリード』をまっさきに紹介したり、マルセル・カルネを監督デビューさせたりと、当時最も前衛的な活動を行っていたSTUDIO DES URSULINESが会場だった。
衣笠がどうやってここへたどり着いたのかは謎に包まれているが、『十字路』がROUTES EN CROIXまたはOMBRE SUR
YOSHIWARAとして紹介された、という資料は見つかった(現在の訳はCARREFOUR)。 ただ、同映画館の歴史を語る記事(CAHIERS
DU CINEMA n.14 1954)には、紹介された日本映画はMUSUMEというタイトルだった、とある。 ふたつは同一作品なのか?
映画館側は、当時の資料は全く残っていないと言い、「そんな話知らなかったわ、ありがとう!」と、こちらが反対に感謝されてしまった。でも、衣笠は確かにここで上映をしている。 その証拠に雑誌POUR VOUSは、1929年に衣笠と記者ロネ・レジャンの対談記事を掲載している。
記事には「このJUJIROという素晴らしい作品を撮った監督によると、我々がその存在さえ知らなかった日本映画は大変な規模のものらしい」と言及されている。 ヨーロッパでの想い出と共に、衣笠本人は1930年に日本へ戻ってしまうが、彼の『十字路』をきっかけにパリジャンたちが開眼した日本映画についての記事は、その後もLA REVUE DU CINEMAなどの雑誌でいくつか発表された(弁士の役割を説明する記事など)。
そして1930年代半ばに日本映画は忽然とフランスから姿を消し、再登場には終戦を待たねばならない。 1951年、ヴェネチア映
画祭で『羅生門』(黒沢明監督)がサン・マルコ金獅子賞に輝いた。「西洋人はこれほど完璧な技術と技法を追求する(日本人の)熱意を想像できただろうか」と、CAHIERS DU CINEMAは驚きを隠さず、同作品が翌年パリの映画館VENDOMEでRASHOMON (DANS LE BOIS)として一般公開された時、各プレスは「新星登場!」(LE PARISIEN LIBERE)、「ハリウッド映画とは全く違った豊かさをもつ素晴らしい作品」(LIBERATION)、「はじめから終わりまで、不思議な魅力の虜に」(FRANC-TIREUR)など歓迎の言葉で迎えた。
『羅生門』の受賞に続く1955年までは、ヴェネチア、カンヌ、ベルリンの三大映画祭で『西鶴一代女』(溝口健二監督)、『源氏物語』(吉村公三郎監督)などが次々と賞を獲得し、日本映画が急速に注目を浴び始めた。 例に漏れず、衣笠貞之助の『地獄門』も1953年のカンヌでグランプリを受賞している。
『十字路』の渡欧より25年余の月日が過ぎていた。
(海)
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