ルマン市 日仏友好協会会長のHさん
パリから南西200kmに位置するルマン市の日仏友好協会会長のHさん(68)は、1977年にロンドンに短期語学留学した時に、ご主人となるフランス人Pさんと出会う。2年後にはPさんの住むパリに移住、翌年結婚。その後2人の息子さんに恵まれ、現在では3人のお孫さんもいる。
O 海外に出ようと思ったきっかけは?
H 服飾系の短大を卒業する頃から、日本の外を見たい気持ちが強くなりました。「兼高かおる世界の旅」という当時のテレビ番組で女性が世界を股にかけて仕事をする姿に憧れていましたから。
O パリからルマンに移住したきっかけは?
H 主人が義父より受け継いだパリの高級封筒・便箋の製造会社を売却し、ルマンで塗装会社を経営することになり、1990年に引っ越しました。前年にパリ=ルマン間のTGVが開通したばかりで、主人の仕事が軌道に乗るまでパリに週4回働きに出ていました。遠距離通勤の先駆けですね。
O 日仏友好協会はいつ発足されたのですか?
H 1999年ですが本格的な活動は2001年、日本語を学びたいという10名ほどの若者の熱意におされ、日本語講座を開講してからです。今では日本語教授はライフワークです。
O お弁当屋さんをされていた時期もあるとか?
H 隠居生活に入るのは早すぎるし、経験がなくともやってみようと2008年にルマン初の弁当屋「Wabi-Sabi」をオープンしました。とんかつ、コロッケ、チキン南蛮弁当など、ルマンの人たちにもすんなり受け入れてもらえました。6年後惜しまれて閉店。というのも、新たなステップに進みたかったからです。
O 新たなステップとは?
H 日本とフランスの2拠点生活です。2019年に「空き家バンク」制度を利用し、佐賀の古い民家を買い取り修理しました。私も主人も古いものが大好きで、佐賀の家にルマンの骨董市で買ったお気に入りのランプを設置したりして楽しんでいます。当初予定していた2拠点生活は、コロナ禍で想像とはかけ離れたスタートを切りましたが、今後は年の3分の1は佐賀で、残りはルマンで暮らしたいです。日本を離れ家庭を持ってから、あらゆる状況に柔軟に対応してきました。地道に普通の生活ができていることが、ありがたいと実感する日々です。(た)