フロベールの『感情教育』(1869年)は、文学青年のフレデリックが、偶然同じ船に乗り合わせた人妻のアルヌー夫人にひとめぼれする場面で始まる。「フランスのウォルター・スコットになりたい」と、文学への野心を持っていた若きフレデリック。でも、恋に落ちたときから、その最大の関心事は、いかにしてアルヌー家に招かれるかということに集約される。
一介の若者でしかないフレデリックの財布はからっぽ。アルヌー氏から船内の食堂に誘われるものの、食事を摂ることはなく、アルヌー夫人の動作に見とれ、彼女がたてる物音にまで耳をすます。「彼女は唇をそっとコップにつけ、指さきでパンのはしをつまみとっていた。腕首に金鎖でつけた碧玉のメダルが皿にかちかちあたった。しかし、そこにいる誰一人として、このひとに眼をとめているふうはなかった。」(生島遼一訳)
このアルヌー夫人のモデルとされているのが、フロベールより11歳年上のエリザ・シュレザンジェ夫人。15歳だったフロベールは、ノルマンディーの海岸で偶然に夫人と出会い、この女性を生涯愛し続けた。一緒に暮らすことはかなわず、その愛がプラトニックだったかどうかは謎に包まれているものの、このふたりの間には確かに豊かな愛情が流れ続けた。最後は精神病院で亡くなったエリザだったけれど、今も残る書簡からも、フロベールがこの女性に最後まで寄せた温かい心がにじみでている。
そんな作者のことを知れば、『感情教育』冒頭のシーンに恋のもたらす魔法が見事に再現されているのも納得。フロベールの文体の格調高さは誰でも認める事実だけれど、この場面の美しさは群を抜いている。既婚者でも未婚者でも、誰かからフロベールのように見つめられたら、自分が芸術作品になった気持ちになりそうだ。(さ)