ジャン=ミシェル・バスキア展 Jean-Michel Basquiat
1月21日(月)まで
ジャン=ミッシェル・バスキア(1960-88)の、1980から88年までに描かれた約120点の作品を堪能できる展覧会。ヘロインのオーバードーズにより27歳の若さで亡くなったバスキアが駆け抜けた、8年間という凝縮された制作活動の軌跡だ。
ルイ・ヴィトン財団の4フロアに、81〜82年にかけての連作『Heads』のうち3点や、アンディ・ワーホルとのコラボレーションの数々、欧州では未発表の『Obnoxious Liberals』 (1982)、『In Italian 』(1983) 『Riding with Death』 (1988)、バスキア存命中に展示されたものの観る機会も稀な『Offensive Orange』 (1982)、『Untitled (Boxer)』 (1982)、『Untitled (Yellow Tar and Feathers) 』 (1982)などが揃った。
1960年12月22日、ニューヨークのブルックリンで経理の仕事をするハイチ人の父親と、プエルトリコ系でグラフィック・デザイナーだった母親との間に生まれたバスキア。ヒップホップ、ブレークダンス、ラップ、グラフィティなど、新しいストリートカルチャーが生まれた60年代のブロンクスやブルックリンで育ち、16歳のとき、両親の離婚を機に父親の家や学校を離れ、路上や友人宅、空きビルなどに暮らし、路上をアトリエとした。
多くの若者が壁や電車などに、社会への反抗、または自分たちを阻害する社会のなかに自分たちが「いる」ことのマーキングとしてのグラフィティを描いていた。バスキアのグラフィティはSamo (Same Old Shit)、その後はSamo is dead とサインされ、人々のはその詩的な要素を認識するようになった。
聴講生としてアートカレッジに通い、キース・ヘリングと知り合い、初めて作品を展示する1980年。翌年にはアンディ・ワーホルとの運命的な出会いもあり、83年から87年にかけて、60点もの共作を行った。82年にはカッセルのアートフェア「ドクメンタ7」にて、22歳の最若年アーチストとして展示。この年、個展6回を始め多くの展示、83年にはキース・ヘリングとの2人展も行った。ホイットニー美術館で、初のアフリカ系アメリカ人アーチストとして出展。特に80年代後半になると、このアフリカ系アメリカ人としてのアイデンティティーを問う作品も多く見られるようになった。(集)