このストーリーは日本に始まっている。2011年3月の東日本大震災の惨劇の報道をフランスで見ていたジェーン・バーキンは、この人々のために何かしなければという思いでいてもたってもいられず、取るものも取りあえず日本に飛んでいってしまう。われらがジェーン・Bはそういう人だ。被災者たちの避難所を訪問したり、物資を届けたり、街頭で募金活動したり、自分ができることは何でもしよう。その中で4月6日急遽アレンジされた支援コンサート(渋谷クワトロ)。この時ジェーン・Bは初めて中島ノブユキに会っている。ピアニスト、映画やテレビの音楽の作曲家として日本で高い評価を確かなものにしている中島も、最初は彼女にとっては「誰この人?」だったかもしれない。しかし音楽が始まるや、ジェーンのレパートリーをいとも繊細流麗に編曲してしまうこのピアニストに魅了され、すぐに「ノブ!」と呼び捨てにする親しい仲になってしまう。
パリに戻り、大震災被災者への義援金集めに奔走していた頃、マネージャーが迫っているアメリカのコンサートツアーの準備はできているか?と聞いてくる。そんなこと眼中になかったジェーン・Bは、今こんな時にとパニックに陥るが、ふっとノブのことを思い出しアイディアがひらめく。日本で出会ったノブと仲間たちでできないかしら。大震災被災者支援のメッセージを込めて、日本の仲間たちとツアーができたら。” Birkin sings VIA JAPAN”のコンサートはこうして始まりノブ編曲の日本人クアルテット(ピアノ、トランペット、ヴァイオリン、ドラムス)を従えたツアーはアメリカだけでなく、世界規模になって2年近くも続き、2013年3月28日、東京オペラシティーで千秋楽を迎えた。
2013年12月、長女ケイト・バリーの突然の死という悲しみのどん底にあった彼女は、一時は健康も危険な状態まで悪化させたのだが、2014年から男優ミシェル・ピコリとエルヴェ・ピエールと共にゲンズブール詩朗読のツアーで復帰する。そしてゲンズブール没後25周年の2016年にジェーン・Bの新しい冒険が始まる。
ゲンズブール作品におけるクラシック音楽の影響は多く指摘されてきたし、ブラームス、ドボルザーク、ショパン、ベートーヴェンなどクラシック曲を取り込んだ曲も少なくない。これがシンフォニック・オーケストラでできたらねぇ、とジェーン・Bがつぶやくや否や、企画は瞬く間に具体化し、2016年6月カナダ、モントリオールでのフランコフォリー・フェスティバルのオープニングでモントリオール交響楽団と共演することになった。ゲンズブール楽曲を誰よりも知り尽くした男、フィリップ・ルリショム(1973年からゲンズブールとバーキンのアーティスティック・ディレクター)が選曲案を出し、オーケストラ編曲には今やジェーン・Bが満腔の信頼を寄せる音楽パートナーとなったノブが。この冒険はバーキン+ルリショム+ノブの強力タッグトリオによる、規模が一段上のゲンズブール・トリビュートと言えよう。
スタジオ盤21曲の録音はポーランド放送交響楽団との共演でワルシャワで行われていて、アルバム(CDとLP)はツアーの真っ最中の3月24日に発売された。
ジェーンはこの選曲について、特に彼女との破局(1980年)の後でゲンズブールが彼女のために書き制作した3枚のアルバム『バビロンの妖精』(1983年)、『ロスト・ソング』(1987年)、『いつわりの愛』(1990年)の作品群のクラシカルな繊細さへの愛着を語っていて、そこから8曲選んでいる。別れた女性に自らの感性の最高のところを捧げ続ける芸術家の姿を思う。「ロスト・ソング」(グリーク組曲ペール・ギュント)、「バビロンの妖精」(ブラームス交響曲第3番)とクラシック曲を援用した曲は、聞き覚えのある名曲のセンチメンタリズムをゲンズブール側にググッと引き寄せたものであるが、これを中島ノブユキの独自解釈の編曲がどうシンフォニック化するかという難しさ。原曲への先祖返りの罠に陥ることなく、ゲンズブール表現を膨らませること。大変な挑戦を任されたわけだが、ジェーンの「ノブ」はそれを一種の日本的和声で止揚したようだ。それは幾つかのフランスのプレス評が指摘する全体的な「映画音楽的」雰囲気で、フランス人シネフィルはノブの和声編曲に、武満、林光、坂本、久石譲らの映画音楽に通じる日本的和声情緒を感じ取ったのだと思う。それは具体的には7曲目「メロディーのワルツ」で、原曲のジャン=クロード・ヴァニエ編曲の強烈にアラビックな弦のユニゾンと対照的に、黒澤明の映画的とも言える重く荘厳な弦のワルツになっている。多分それは”Via Japan”の時と同じエスプリで、ジェーンが愛したそこはかとない日本的なるものかもしれない。
1983年にゲンズブールが書いた双子のように似た2曲、「虹の彼方」と「マリンブルーの瞳」がこのアルバムの中に同居している。前者は別れたジェーン・Bのために書き、後者は(当時の新しいお気に入り)イザベル・アジャーニが歌いシングルチャート1位の大ヒットとなった。わだかまりがあったにちがいないジェーン・Bは初めて「マリンブルー」をカヴァーしたのだが、時は流れたのだ。2曲はジェーン・Bとノブの手によって、やっと姉妹になれたように聞こえた。
文・向風三郎