プレリュードにこう書かれる:
親愛なるアルチュール、
おまえに美しい死が訪れるよう願う おまえは天使たちさえ避ける場所に
足を踏み入れた
そしておまえは私であり、みんななのだ
詩聖にして導師、兄弟、あなたでも私でもあり、あらゆる者であり誰でもないランボーにふさわしい美しい死をフォンテーヌは捧げようとする。なぜならこの魂はまだ向こう側に渡っていないのである。
アルチュール
私たちが道を渡るのを手伝っておくれ
私たちは戦い破れた老女たち
冷凍された老人たち
死産の赤子たち
私たちは若い女と死
若い男と死
アルチュール
できるかい
私たちを手伝っておくれ
おまえは道を渡れたのかい
フォンテーヌにとってその死とは、マルセイユの病院で壊疽した脚を切り迎えた末期の際にキリスト教に改宗して受ける受難のことではないはずだ。この問いのためにフォンテーヌは30数ページにわたってマシンガンのように言葉を撃ち続ける。詩? 私はフォンテーヌの肉声が聞こえるラップ詩のように読んだが、詩に変わりはない。谷間に眠る者などいない、と。最高の塔も、季節も、城も、一旦落とし前をつけなければならない。そして再び見つけられた永遠も。
無限には終わりがあるようだ
そんなこと想像できるか?
時として
折れた命の樹と殺された不死鳥などは
おぞましい錯乱をもたらすよ
耐えがたいものを耐えるのに
おまえはどうやっているのだ
甘んじて殉教の苦を受け入れるのか
無限には終わりがあり、永遠には果てがある。この悲報を告げにフォンテーヌはこの本を書いたのだろう。悲報を告知するのは詩人の役目だ。「無より無である無はない(rien n’est plus rien que rien)」。ランボーは死に、聖ランボーになることはない。フォンテーヌは死んでラ・フォンテーヌになることはない。ブリジット、この8ユーロの薄い本は稀な詩と死の贈り物だ。リスペクト。
文・向風三郎