中央アジアのキルギス。「馬は人間の翼だった」という言葉を残す、騎馬民族末裔の国である。優男ケンタウロスは、ろうあ者の妻と幼い息子とともに、慎ましくも平和に暮らしている。5歳の息子に、馬の伝説を嬉々として伝える様子はなんとも微笑ましい。彼には裏の顔がある。深夜に村人の馬小屋へ忍び込んでは、自ら馬にまたがり、最後には荒野に馬を放つのだ。蒼々とした空のもと、両手を天にあげ、馬を疾駆させる姿は立派で神々しい。だがもちろん、「馬泥棒」と非難される行為でもあるだろう。
映画は冒頭から、この奇怪な彼の行動を描いてしまうので、馬泥棒の犯人は早々と明かされることに。とはいえ、この行動の「なぜ」の部分は、観客が自由に思いを巡らせるのだ。その理由だが、ひとつには移り変わる社会への告発の意味があるようだ。かつて馬はキルギス人の魂そのものだった。それが今では、村人は金や権力に踊らされ、民族のアイデンティティが欲望に侵食されるようになった。それがケンタウロスには耐えられない。
しかし、映画は彼を格好いいアンチヒーローに祭り上げ、満足するわけではない。愛する家族がいるにも関わらず、なぜか屋台の女性に色目を使ったりと、時に飄々(ひょうひょう)と、しょうもない行動にも出る。この人間味あふれる男を、アクタン・アリム・クバト監督自らが好演する。『あの娘と自転車に乗って』『明りを灯す人』といった秀作で知られる彼は、今やカンヌやベルリンなど有名映画祭の常連。主人公を元映写技師に仕立てたり、キルギス映画の古典を挿入したりと、中央アジアの知られざるシネフィル文化の一端にも触れられる。また、比較的遅い時代にキルギスに入り独自の発展を遂げた、イスラム文化の描かれ方も興味深い。(瑞)