Salle des enseignes
カルナヴァレの「顔」、看板展示室。
カルナヴァレ博物館に行くと、まず看板展示室に迎えられる。今のように建物に番号がふられていなかった時代、看板は目印として大切なものだった。番号制は部分的に16世紀頃から取り入れられていたものの、政令で一般化されたのは1805年(セーヌ川に平行する道は流れに沿って番号が大きくなり、右に偶数、左に奇数。セーヌ川に対して南北に伸びる通りは川に近いほうから番号が始まる)。
看板はこの美術館の開館前1860年代から、パリ大改造で壊される建物などから集められた。看板だけを集めた展示室が設けられたのは1914年で、今回のリニューアルではその当時のディスプレーを再現しつつ、収蔵庫で眠っていたものも登場させた。
カルナヴァレ博物館にゆかりのある人 – ①
パリ大改造を推進、オスマン=セーヌ県知事。
人口が増え続ける19世紀のパリ。不衛生な小路が多く、疫病の蔓延が問題になっていた。ナポレオン3世統治下でセーヌ県知事を務めるジョルジュ・オスマン(1809-91)は、そんな古いパリを壊し、大通りを貫通させて主要な公共施設や駅をつなぎ、下水道を完備して近代都市へと改造する。
全10区から20区にパリを拡大し、景観を整えるために建設の基準をもうけ、公園を市内24カ所に造った。今日一般的に「美しいパリ」とされるのはオスマン知事の都市計画によるものだ。一方で、古い建物に住んでいた多くの貧民層は追い出され、街は富裕化する。1850年から20年にわたるメガ工事の莫大な出費も非難の的となったのも想像に難くない。
街があまりにもめまぐるしく姿を変えるため、遊びながら地理を把握する〈新しいパリ〉というボードゲームが登場(写真下)。1867年のパリ万博のために作られたものとされる。仏近代都市の創始者オスマン知事だが、消えゆく古いパリを保存することも考えた。1548年に建てられたカルナヴァレ館を買うようパリ市に促し、カルナヴァレ=パリ歴史博物館が誕生した。
カルナヴァレ博物館にゆかりのある人 – ②
パリの歴史を体現するセヴィニェ夫人
カルナヴァレ博物館にゆかりのある人といえば、セヴィニェ夫人(1626-96)。というより、この人がこの館に1677〜96年まで暮らしたことが、ここにパリの歴史博物館が生まれたゆえんでもある。生まれはカルナヴァレ至近のヴォージュ広場(当時ロワイヤル広場)、カルナヴァレに住む前はシャルロ通り、という生粋の「マレっ子」。両親を早くに亡くし祖父母、そして叔父に教育を受け18歳でアンリ・ド・セヴィニェと結婚するが25歳の若さで未亡人になる。夫が愛人のための決闘で負傷し28歳で死んでしまうからだ(そのためクロード・ルフェーヴルによる肖像画は半喪)。
愛娘フランソワーズがグリニャン侯爵と結婚し南仏へ移住することになると、ほぼ毎日、娘に手紙を書く(1372通以上)。娘への愛情吐露は息苦しいほどだが、ラシーヌの芝居、民衆蜂起、知人の裁判や結婚などルイ14世統治下の社会が描写された手紙をまとめた『往復書簡』は今日まで読み継がれている。館内には、そのエスプリ、交友関係からパリの町と歴史を体現する夫人のサロンが再現され、そこに1671年の手紙が展示されている。博物館前の通りは現在「セヴィニエ通り」となっている。
▶︎(次ページへ続く)ではいよいよ、展示室へ。
Musée Carnavalet - Histoire de Paris
Adresse : 23 rue de Sévigné 3e , 75003 Paris , FranceTEL : 01.4459.5858
アクセス : M°Saint-Paul / Chemin Vert
URL : https://www.carnavalet.paris.fr/
月休、10h-18h、常設展無料。 要予約。