30数年の滞在ながら完璧とは程遠いフランス語を操る私でも、日仏バイリンガルである有り難さは日々感じている。二つの文化を持つということではない。フランス語を話したり書いたりする自分はその世界の中にあり、思考や視点はそちら側に属する部分が多くなる。日本語でもまた同じことが起こる。バイリンガルの人にはその行き来が可能で、両世界の差異を理解し、片方の世界で生きている人にはない複数性(プリュラリテ)を知らぬうちに獲得している。自然に形成された両言語のインターフェイスのような。
この小説に即して言えば、「お帰りなさい」という日本語が、一日中待たされた恋する主人公が用事(家族の結婚式)から帰ってきたフランス人の恋人に発せられる時、翻訳不可能の愛の告白として解されたり、「目の中に入れても痛くない」という日本語表現が、仏語に翻訳することでどれだけ陳腐になろうが、愛する人に今この時の愛しさはこうとしか言いようがない、というバイリンガルの魔術的瞬間がある。
その深いフランス語愛で知られる仏文学者・翻訳家・作家、水林章の3作目のフランス語小説『千年の愛(Un amour de Mille-Ans)』である。題(Mille-Ans)にも、作中主人公 (Sen-nen)も間にトレ・デュニオンが入っているので厳密には「千-年の愛」と表記すべきかもしれない。豊穣なフランス語表現者であり、熱烈なオペラ愛好家である作者のある種、自伝的要素の濃い小説であり、千年という名の引退した仏文学教授が長年勤めた東京を離れ、余命短い病身の妻マチルドとパリで暮らす隠居の日々が描かれる。しかし千年とマチルドの離日・フランス再移住の理由は愛妻の病気だけでなく、2011年3月の大震災・原発事故以後の日本に圧迫されそうな耐え難い苦しみから逃れるためだった。これはポスト・フクシマの小説でもある。
大きくなった娘はニューヨークで仕事している。引退教授のアパルトマンは、寝室からなかなか出られない妻と優しい牝犬ブランカだけの小さな家庭で、食事をはじめ家事一般は千年が受け持つ。病と供にありながらも平静な老年の日々に、29年前に一度会ったきりのオペラ歌手から再会を乞うメールを受け取り、千年は動揺する。マチルドと知り合い恋に落ちる前、パリで博論を準備していた千年は、年末のオペラ座で公演されていた、ある種画期的なモーツァルト歌劇『フィガロの結婚』(それがなぜ画期的なのかは小説中で興味深い「フィガロ」論として説明される。これは壮大な音楽小説でもある)に夢中になり、貧乏学生の貯金すべてをはたいて全11回公演を最良の席で観てしまう。その狂気の沙汰の最大の原因はフィガロの許嫁スザンナ役に抜擢された新人歌姫、クレマンスの歌唱パフォーマンスであり、興奮を止められない千年は、その感動を複数の文にしたためてクレマンスに送りつける。心打たれた歌手は最終公演の終演後に千年に会いたいと返信する。果たして二人はオペラ座裏のビストロで夜更けまで熱っぽく語り合うのである。しかし一世一代の出会いと思われたこの恋は成就しない。