1980〜90年代にかけ、リヨンの神父が少年たちに性暴力を働いた「プレナ事件」。加害者はすでに起訴されているが、裁判が行われるのはまだ先の予定だ。人気監督のフランソワ・オゾンは、まだ裁判の決着を見ていぬデリケートな題材を選び、映画に仕立てた。劇中では被害者の名は偽名だが、教会側の人名は実名を使用。プレナ神父からは劇場公開の延期を求める裁判も起こされたが、公開直前のタイミングでようやく上映に青信号が灯った。まさに渦中の作品と言ってよい。
教会が渋い顔を向ける映画ではあるが、オゾンは加害者の悪行を告発することにさほど興味はない。むしろ愚直なまでに被害者の苦しみにカメラを向ける。
被害者たちは協会「La Parole Libérée(解放される言葉)」を発足させ、専用サイトを立ち上げ、記者会見を開く。彼らは一気に歩み寄るように見え、その実、それほどスムーズな一致団結ぶりは見せない。そもそも彼らは社会階層、身内からの支援、信仰の厚さ、心の傷のあり様がそれぞれに異なるのだ。「暴行を受けた典型的な子供などいない。あるのは苦しみだけ」と監督が語るように。
当初、本作には『L’homme qui pleure 泣く男』という仮題が付けられた。実際、登場する男性たちの多くが涙を見せている。一昨年末から続くMeToo運動の発言者は主に女性だが、なにも性暴力の被害者は女ばかりでない。男たちも未だ少年時代の傷に苦しんだままのところに、問題の根の深さを感じさせる。
教会という権威にひるまず、長らく封印されてきた言葉に耳をすます真摯な一本。ぜひ家族や友人などとオープンに感想を語り合ってほしい。名声のわりに有名映画祭での受賞が稀なオゾンだが、先のベルリン映画祭では満を持して次席にあたる審査員大賞を受賞した。(瑞)
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