今年度のフェミナ賞をエッセイ部門で受賞した、アニー・コーエン=ソラルの新著(『Un étranger nommé Picasso / 仮題:ピカソという名の異邦人)を元に、国立移民歴史博物館が野心的な展覧会を開いた。コミッショナーはコーエン=ソラル自身。20世紀を代表する偉大なアーティストが、異邦人ゆえに警察から危険人物として目をつけられていたなんて、誰が想像しただろうか。コーエン=ソラルは、これまで美術研究者が取り上げなかったパブロ・ピカソ(1881 – 1973) の知られざる部分を、丹念な調査で明らかにした。
初めて外国に行く時、人はその地に渡った友人や同郷人を頼って行く。ピカソもそうだった。ところが、ピカソをパリで迎えたカタルーニャ人コミュニティを警察がアナキストと断定したことから、ピカソも危険な外国人アナキストとされたのだった。
当時は、反ユダヤ主義とナショナリズムがフランス社会を席巻していた。ユダヤ人大尉ドレフュスがスパイ容疑で逮捕された冤罪事件「ドレフュス事件」もちょうどこの頃だ。ドレフュスは1894年に有罪とされたが、1906年に最高裁で無罪判決を受けた。ピカソがパリに来たのは19歳になる直前の1900年。警察の書類にはピカソがフランス語をほとんど話さない外国人美術家であると記されている。外国人差別が激しい時代、ピカソは証拠のない嫌疑をかけられ「胡散臭い外国人」とみなされたのだった。
この書類がずっとピカソについて回った。1936年に描いた「ゲルニカ」がファシズムへの抵抗の象徴とみなされたことから、ピカソは警察から出頭を命じられ、通行証なしで移動することができなくなった。スペインがフランコの独裁国家になり、自分の作品がナチス・ドイツから「退廃芸術」とみなされ、フランスが独軍に占領されつつあることから、ピカソは身の危険を感じ、上院議員と高級官僚の支援を得て1940年4月にフランス国籍取得を申請した。ところが40年前の書類が活きていて、警察から却下されたのである。会場には、ゲルニカに描かれた女性を思わせる「泣く女」がその当時の作品として展示されている。
1944年、パリ解放の2ヵ月後、ピカソはフランス共産党に入党した。母国スペインが独裁政権になったため帰れず、フランスから国籍取得を拒否されていたピカソは、両手を広げて迎えてくれる「自分の国」といえる場所が欲しかった。そこで、思想的に共鳴していた共産党に入党したのだった。1931年にパリで開催された植民地博覧会のボイコットを呼びかけ(https://ovninavi.com/un-eair-edefamille_musee-paul-eluard/)。共産党員になっていたポール・エリュアールなどのシュルレアリストの友人が祝辞を送った。
ずっと住んでいたフランスよりも米国など外国で評価が高かったピカソ。戦後、やっとフランスがピカソの重要性に気づき、ドゴール政権のもとでアンドレ・マルロー文化大臣が国籍授与を提案したが、世界的な著名人になっていたピカソは「何をいまさら」と思ったのだろう。政府の提案を断り、一生スペイン国籍で通した。
展覧会の最後は、1965年にパリのグランパレで行われた大回顧展のビデオ、晩年に居を構えた南仏の風景で終わっている。
今でこそ、過去にフランスがとった態度への反省から移民の歴史を紹介する博物館になっているが、展覧会場は植民地博覧会のために建設され、博覧会後、「植民地博物館」になった建物だ。内覧会でコーエン=ソラルは「この建物でピカソ展をすることは、今のフランスにとってチャレンジだ」と語った。外国人排斥を主張するエリック・ゼムールの人気が高まり、極右が勢力を伸ばしつつあるフランスの現状を頭に置いた発言だ。外国人=危険人物と決めつけられる危険性は今もある。ピカソの体験は人ごととは思えない。フランスに住む外国人である私たちや、日本を含めた他国に住むすべての外国人の身に降りかかる可能性があることなのだ。(羽)
2022年2月13日まで
Musée de l’histoire de l’immigration - Palais de la Porte Dorée
Adresse : 293 avenue Daumesnil , 75012 Paris , FranceTEL : 01 53 59 58 60
アクセス : M°Porte Dorée
URL : http://www.histoire-immigration.fr/
火〜金 10h-17h30、土日10h -19h、木は21hまで。入場料8€/5€。