取材・文:児玉しおり、編集部
ストラスブールから北西に約60km。ドイツとの国境にほど近い地域にフランスのガラス/クリスタル産業の拠点の一つがある。北ヴォージュ自然公園の中にある緑豊かな村々。17世紀頃までは住む人が少なかった森林地帯には、ガラスづくりに必要な自然資源がそろっていた。半径4km以内におさまるサンルイ・レ・ビッチュ、マイゼンタール、ヴィンゲン・シュール・モデールの3つのガラスの里を訪ねた。
Cristallerie Saint-Louis サンルイ・クリスタルガラス製造所
クリスタルの匠の粋を集めるサンルイ。
サンルイ・クリスタルガラス製造所の起源は、必要な砂岩や木を求めてガラス工房が移動していた時代の1586年にミュンツタル村に移ってきたホルバック・ガラス製造所とされる。その後、17世紀の廃業から100年以上経って再建されたその製造所は1767年にルイ15世から「王立サンルイガラス製造所」の名を拝受し、村の名前もサンルイ・レ・ビッチュに変わった。製造所は一人前になるのに10年かかる職人を大事にし、その家族の住宅、学校、教会などを整備したという。
ヴェネチアやボヘミアのガラス製品が欧州で珍重され、1676年に酸化鉛を加えるクリスタルガラス製造技術を完成させた英国が欧州王室の需要を独占するのに対抗して、サンルイは1781年に酸化鉛を使う独自のクリスタル製造技術を開発。19世紀初めにはクリスタルに特化し、様々な技術を発展させ、製品の種類も多様化した。ドイツ領時代や第2次大戦後は大衆ガラス製品を製造せざるを得ず、米企業に買収されかけるが、1989年にクリスタルガラスのノウハウ保護のためにエルメスが資本参加、1995年にはエルメス傘下に入った。国家最優秀職人(MOF)の称号を持つ職人11人を擁する。
欧州大陸最古のクリスタルメーカーであるサンルイは「口で吹き、手でカット」がモットー。クリスタルガラスは珪砂、カリウムといったガラスの原料に酸化鉛(24%以上)を加えることで水晶のように透明度と輝きが増すためそう呼ばれる。1890年築のアトリエでは、陶器に入れた原料を1450℃のガス炉で溶かし、二人一組の職人が吹き棹の先に巻き付けてとり、型の中に吹き込んで成形していた。その後、500℃程度の炉でじっくりとさます(急激にさますと割れるため)。カットのアトリエでは、研磨機の前に座った大勢の職人がダイヤホイールで一つひとつのグラスや花瓶のカットを行っていた。カット模様の印は付いていないので、経験に裏打ちされた勘が頼りだ。さらに細かなカットは目の細かいホイールで仕上げる。いくつかの段階で「choisisseuse(選ぶ人)」と呼ばれる人が不良部分にマジックで印をつけ、補修させるという厳しい品質チェックが行われている。
細かい柄のエングレーヴィング(表面彫刻)、模様を酸で腐食させるエッチング、金粉やエナメル顔料で描いた模様の焼き付けなど技法は多岐にわたる。ペーパーウェイト工房では、極細の色の違うクリスタル棒をまとめて熱して金太郎飴のようにしたのを切り、それをピンセットで一つひとつ木枠に入れて複雑な模様を作っていた。これを透明なクリスタルに熱しながら入れ込むと繊細な柄のペーパーウェイトができる。サンルイは1845年から製造しており、蒐集家もいるそうだ。
2007年に開館したアトリエ併設の博物館 「グラン・プラス」は1775年の最初のコップから1970年代までの代表的な2000点が展示されていて見ごたえがある。19世紀のガラス溶解炉跡の吹き抜けに大小のシャンデリアがあり、その周りをらせん状のスロープで上っていく。花瓶、水差し、クープ、グラス、ペーパーウェイト……。スタイルも不透明の「オパーリン」、色ガラス、大理石に似せた濃色ガラス、帯模様(棒クリスタルの組み合わせ)、19世紀末〜20世紀初めのアール・ヌーヴォーとアールデコ時代の作品、透明ガラスの外側に色ガラスを被せてカットした二重〜四重ガラス製品など、200年以上の技術と創造の変遷を垣間見ることができる。(し)