第74回カンヌ映画祭(2021年7月6日から17日)の余韻も冷めぬうちに、映画ファンの前に登場した濱口竜介監督『ドライブ・マイ・カー』。フランスでは8月18日、日本では8月20日に劇場公開。日仏で同時期に公開される邦画はかなり珍しい。村上春樹の短編集『女のいない男たち』からエッセンスを抽出し、滑らかな手つきで一本のドラマに仕立てた179分。喪失感を抱える演出家の心に伴走するメランコリックな人生ドライブだ。
本作はカンヌで日本映画初の脚本賞(濱口と大江崇允の共同脚本)受賞に加え、国際批評家連盟賞、キリスト教関係者が選ぶエキュメニック賞、独立系映画館網が主催のAFCAE賞と外部三団体の賞も獲得。最高賞のパルムドールに推した人も多く、本作への熱狂は本物であった。
今年のコンペ部門には演出家、作家、画家、漫画家、ダンサーといった、いわゆる“表現者”を主役に据える作品が目立った。監督の分身のような役も散見され、外よりも内へと視線が向かう“内省の時代”を感じさせたが、もしやコロナ禍の影響もあるのかもしれない。
『ドライブ・マイ・カー』もまた、舞台役者で演出家の家福(西島秀俊)が主人公。広島の演劇祭からの注文で、多言語劇の演出を担当する男だ。彼の指導のもと、使用言語も様々なアジアの俳優たちが『ワーニャ伯父さん』のテキストに挑む。ここでは手話も雄弁な演劇の「言語」だ。
稽古以外でも、家福は真っ赤な愛車サーブの中で、録音された戯曲の台詞を繰り返し聞いている。19世紀末のチェーホフの言葉は、現代を生きる私たちの意識に何度でも語りかけてくる。アプローチは異なれど、「チェーホフ作品をモチーフとした長尺作品」「雪景色やコミュニケーション不全の夫婦が登場する」など共通点が多い、2014年のパルムドール作品、ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督の『雪の轍(わだち)』も思い出した。
カンヌの記者会見で濱口監督は、「言葉を使ってるからコミュニケーションができていると思ったら大間違いというとことがある。むしろ、言葉がコミュニケーションを邪魔している側面があるのでは」とも語っている。発された言葉、発されなかった言葉の行方を見届けるのはスリリングな体験となるだろう。
滞在中の広島で、家福はドラマのキーパーソンとなる若い女性ドライバー、みさき(三浦透子)と出会う。彼女が家福の送迎を任されるのだ。ふたりはともに喫煙者。喫煙シーンに厳しい目が注がれるこのご時世に、あえて婉曲的だが印象的な喫煙シーンが挿入されているのも興味をそそられた。本作は『ワーニャ伯父さん』の台詞(「長い日々と長い夜を生き抜きましょう」)が示唆する通り、生き辛さを抱えた人間のドラマとも言える。そして厳しい時代を生かされる観客にとっては、慈しみに満ちたこの映画そのものが、ふと差し出された救いの一服になるかもしれない。(瑞)