Esprit d’atelier : Arp et Taeuber – vivre et créer
パリからRERのC線でヴェルサイユ方面行きに乗り、ムードン・ヴァル・フルリーで降り、坂道を登る。ムードン市を越えてクラマール市になったあたりに、ジャン・アルプ(Jean ARP 独名ハンス・アルプ、 1886-1966)とゾフィー・トイバ―=アルプ(Sophie Taeuber-Arp, 1889-1943)が1929年に建てたアトリエ兼住居が見える。
絵画、彫刻、詩を手がけたジャンと、テキスタイル、絵画、インテリアデザイン、ダンスに打ち込んだゾフィーが影響し合いながら生活を共にした場所だ。ここで「アトリエのエスプリ Esprit d’atelier」と題した、アーティスト夫妻の展覧会をクリスマスまで開催している。11月24日までの予定だったが、好評のため12月22日まで延長された。
ジャンはドイツ帝国領だったストラスブールで、ドイツ人の父とアルザス人の母の元に生まれた。生まれた時の名前はハンス。後にフランス国籍を取得し、ジャンに改名した。ストラスブールの工芸学校やヴァイマルの美術学校に通ったが、アカデミックな美術教育が合わずドロップアウトし、ほとんど独学に近い形で美術を続けた。1912-13年、ミュンヘンに滞在し、芸術雑誌「青騎士(der Blaue Reiter)」に協力。そして、青騎士のヴァシリー・カンディンスキー、フランツ・マルクらが開いた展覧会に参加した。アルプは彫刻家として有名だが、この頃は主に平面の作品を制作していた。第1次大戦が始まると、兵役を避けてスイスに移住した。
一方、ゾフィーは、2歳の時に父が亡くなり、母と田舎の家に引っ越した。美術家でフェミニストだった母は、家で女性たちにレース、タピスリー(タペストリー)などを教え始め、研修生を家に泊めた。こうした環境で育ったゾフィーがアーティストの道を歩むのは当然の成り行きだった。ドイツとスイスの工芸学校で学び、優秀な成績を収め、1916年には、チューリッヒの工芸学校でテキスタイルの教授に任命された。
1915年、2人はチューリッヒで出会う。翌年、この町に「キャバレー・ヴォルテール」が開店し、既成の概念を破壊する前衛芸術運動「ダダイズム」の本拠地となる。2人はダダ宣言に参加し、絵画、テキスタイルなどでダダの活動をするように。ルドルフ・ラバンの表現主義ダンス学校に通っていたゾフィーは、キャバレー・ヴォルテールで踊ったこともあった。ジャンはベルリン、ハノーヴァー、ケルンでもダダにも参加した。
ふたりは1922年に結婚。その3年後、パリのモンマルトルに居を構えた。その時の隣人たちが、マックス・エルンスト、ホアン・ミロ、ポール・エリュアールなどのシュルレアリストだった。ジャンはシュルレアリストの会合にも出席するようになる。1927年、ジャンは初めての個展をパリのギャルリー・シュルレアリストで開いた。カタログの序文はアンドレ・ブルトンが書いた。
クラマール、戦争、ゾフィーの突然の死。
1927年から29年にかけて建設されたクラマールの家は、ゾフィーが設計した。1926年にゾフィーがストラスブール中心街の複合娯楽施設の内装を依頼されたが、建築の教育を受けていなかった彼女は、2人の友人、建築家のテオ・ファン・ドゥースブルフとジャンをプロジェクトに誘い、3人で手がけた。それで得た報酬が、家を建てる資金となった。クラマールでの生活は1940年まで続いた。1930年代は、ニューヨーク、ストックホルム、ロンドンなどで展覧会を開き、また雑誌にも作品が掲載されて2人の国際的な知名度が上がった時期でもあった。
1939年に第2次世界大戦が始まり、翌年5月にナチスによるフランス侵攻は始まって1か月後、2人は南仏グラースにいたイタリア人美術家アルベルト・マニエリの元に、友人のソニア・ドローネーと避難。しかし、独軍が南下し南仏も危険になったため、1942年チューリッヒへ。だが、その数ヵ月後、ストーヴの故障でゾフィーが一酸化中毒死してしまう。妻を失った失意のジャンは数年間仕事ができなかった。そこに現れたのが、2人の友人でスイス人コレクターのマルゲレーテ・ハーゲンバッハだった。次第にジャンの伴侶となり、生活を共にするようになった。2人は1959年に結婚し、クラマール、バーゼル、ロカルノを行き来する。
ジャンは1949年にニューヨークで米国初の個展を開き、1964年にはヴェネツィア・ビエンナーレの彫刻部門で大賞を受賞し、国際的な名声はさらに高まった。ゾフィー亡き後、彼を支えたマルゲレーテは、ジャンの死後、非営利団体を作り、夫とゾフィーの作品を管理した。それがアルプ財団の元になった。財団を訪れると、まず責任者のセバスチャン・タルディさんがこうした話をしてくれる。その後は館内を自由に見学できる。
本館は3階建てで、2階が道路に面しているため、こちらを地上階(日本でいう1階)と呼び、庭に面した階を庭側の地上階(日本式の1階)と呼んでいる。その庭側の地上階が入口だ。この階は居間、ジャンの彫刻の仕事場、食堂、台所を兼ねたスペースだった。道路に面した地上階はジャンの仕事場。階段の奥に浴室とトイレがあるが、こちらは閉鎖されていて見学できない。
2階はゾフィーの仕事場。その隣の12平方メートルほどの小部屋が夫妻の寝室だった。1つの階の面積が60平方メートルを少し上回る大きさで、各自の仕事場は25−30平方メートルと意外に小さい。庭の奥に、細長いジャンのアトリエがあるが、これは、ジャンがマルゲレーテと一緒になった後に建てたものだ。本館建設当時の敷地ではなく、後から買い足した土地である。
アトリエ兼住居には、トリスタン・ツァラ、ピエール・スラージュ、マニエリ、ダリなど多くのアーティストが訪れた。庭で開いたティータイムの写真には、ジェームズ・ジョイス、マックス・エルンスト、スイス人美術家でシュルレアリストのメレット・オッペンハイムらが写っている。皆が座っているテーブルの後ろに生垣が見える。当時はここが隣との境界線だったのだろう。それを考えるとなぜ家が小さいのかが納得できる。
ジャンは昔作った彫刻の一部を別の彫刻にくっつけてみるといった実験的な方法も試みた。ジャンの彫刻も切り絵も有機的で曲線が多い。それに対し、ゾフィーのデッサンは幾何学抽象だ。「ゾフィーはダンサーだったので、リズムや動きを大切にした。また、工芸家でもあったので、緻密に計画を立てて構築するタイプでした。」アトリエにはドアがないので、もう1人がどんな仕事をしているのか、聞こえてくる。アトリエに閉じこもるのではなく、もうひとりに声をかけたりして、互いの仕事を感じながら制作が進んだ。そのコミュニケーションがゾフィーの急死で途絶えてしまったのだ。
ゾフィーのアトリエには、彼女が設計した仕事机がある。IKEAの家具のような、積み重ねられる棚も、シンプルなランプも、彼女がデザインした。前後と左右で模様が違うパッチワークのパンタロンには、着物のデザインに通じるものがある。
ジャンの作品で気になったのは、クラフト紙にグアッシュで描いた抽象画の本のカバーだ(写真下)。10点以上が寝室に飾られている。ジャンの彫刻も切り絵もデッサンも、無駄な線のないミニマリスト的なものが多いが、本カバーの絵は、奔放な筆致が抽象表現主義を思わせ、ジャンの作風のイメージと違う点が面白い。展示では本の中が見えないが、ダダイズムについての本が目立つ。1937年に東京で詩人の山中散生と瀧口修造が企画した大きなシュルレアリスム展「海外超現実主義作品展」についての「みづゑ」臨時増刊388号もある。ダダとシュルレアリスムがジャンにとってどれだけ大切だったのかがわかる。
アルプ財団の次の企画は「ジャン・アルプと神話」で、2025年2月から始まる。ゾフィーの作品は、家具などの動かせないもの以外は出ないので、彼女の作品を見るなら今のうちに行っておこう。アルプ財団は、2025年3月1日から6月1日まで、東京・アーティゾン美術館で開かれる「ゾフィー・トイバー=アルプとジャン・アルプ」展にも協力し、作品を貸し出す。(羽)12/22まで
Fondation Arp
Adresse : 21 rue des châtaigniers , 92140 Clamart , FranceTEL : +33 1 45 34 22 63
アクセス : RER C : Meudon Val Fleury (こちらのページに地図ありhttp://www.fondationarp.org/visite.html)
URL : http://www.fondationarp.org/
見学ツアーの後、自由見学。見学ツアー(予約なし)は、金:14h30と16h00 土:14h30/15h30/16h30 日:14h30/15h30/16h30。閉館は18h 。10€/7€/4€。