博物館の展示などで、ある光景を表現した大型の立体模型を「ジオラマ」という。このジオラマ、もともとは19世紀前半のパリにあった ”DIORAMA” という、大仕掛けな見世物劇場の名だった。それまで人気だった「パノラマ」は、暗い円形の観客席の周りに貼られた帯状の精緻な絵を回転させ、まるで風景が広がっているように感じさせるというものだった。
1822年、このパノラマの絵を描いていた画家ルイ・ダゲールがジオラマを考案し、その劇場を開設。彼は後に銀板写真「ダゲレオタイプ」の発明で”写真の父”と呼ばれることになる。
ジオラマ劇場の観客席は円筒形で、その壁に開いた額縁状の窓の向こうに、巨大な半透明のキャンバスに描かれた光景が、まるでそこに現実にあるように見える。前面からの照明が画面後ろからの透過光に変わると、まったく違う光景が魔法のように出現したという。追随する類似館がロンドンにできるほどの人気だったジオラマは、しかし1838年に火事で焼失してしまう。
1839年にダゲレオタイプの発明を公表したダゲールは、これを機にパリを引き払い、翌40年に近郊の町ブリ・シュル・マルヌの古い田舎家に引越し、晩年をここで過ごした。ブリに来てすぐ、町の教会にジオラマを作るよう依頼されたダゲールは、1842年、小さな教会にゴシック大聖堂の内陣が続くように見えるジオラマを完成させる。この「ダゲールのジオラマ」は、国の歴史文化遺産として2007年から5年余りかけて修復され、常時公開されています。(稲)
取材・文・写真:稲葉 宏爾
ブリ・シュル・マルヌ。ダゲールが眠るマルヌ川の町へ。Daguerre – Diorama-Daguerréotype
ブリ・シュル・マルヌは、パリから12キロほど東のマルヌ川畔の静かな町です。RER A線のブリ・シュル・マルヌ駅前からアヴニュ・クレマンソーに出て、住宅街を500mほど。ダゲール(Louis Jacques Mandé Daguerre 1787 – 1851)のジオラマがある教会へ向かう町の中心街グランド・リュ・シャルル・ド・ゴールを行くと右手に市庁舎がある。ここのホールと上階のコーナーに、ダゲールのジオラマの原理模型、ダゲレオタイプの手順の説明やその写真、それにダゲールが描いた油絵などが展示されている。ブリの風景や大木の絵を見ると、当時のサロンに入選したという画家ダゲールの技量の確かさを納得させられます。
市庁舎の向かいには観光案内所。その隣がジオラマのある教会サン・ジェルヴェ・サン・プロテです。17世紀初頭の建立だというけれど、後に改装されたものらしいシンプルな外観だ。
入口にあるジオラマの照明のスイッチを押すと、奥の暗がりに「ブリのジオラマ」が浮かび上がる。祭壇後方にゴシック様式の内陣が延び、上にはキリストの磔刑(たっけい)像、奥のアーチ窓から微かな外光が差し込んでいる、ように見える。近づいてよく見ると、これが天井から吊るされた一枚の大きなトロンプルイユの絵だというのがわかります。でも、パリのジオラマのように別の光景に変化はしない。照明が変わっても色調などが多少違って見えるだけ。これがジオラマ! というような特別なタネや仕掛けはありません。
教会右手の坂道から階段を上ると、木立につつまれた高台に出る。ダゲールの所有地だったところです。ダゲールの家は17世紀の大きな田舎家で、別棟の廐(うまや)をアトリエ兼写真実験室にしていた。厩に付設していた鳩小屋(といっても石造りの塔)は、ダゲールが自作のダゲレオタイプで、マルヌ川や町の眺望を撮影する展望台として使われた。
1870年、普仏戦争のマルヌの戦いで、ドイツ軍の爆撃を受けたブリの町は壊滅的に破壊され、ダゲールの暮らした家は地下の貯蔵室と玄関に上る階段部分だけが、後に再建された建物に生かされています。2万㎡のダゲールの土地は今は市の所有となり、学校や文化施設になっている。
ダゲールの胸像が立つ交差点先の橋のたもとから岸辺に降りると、約3kmの気持ちのいい散歩道が続いています。
駅に戻る途中、アヴニュ・クレマンソーの東側にSNCFの貨物線のガードが見えてくる。それをくぐって線路際の次の道を右に入るとすぐ、塀に囲まれたブリ市の墓地がある。正門を入って右側の1本目を数メートル行くと、右手にひときわ大きな墓碑が立っている。ダゲールの墓です。ブリに住んで10年、「写真の父」は奥さんのルイーズ=ジョルジーナ、姪で養女だったマルグリット=フェリシテと共に眠っています。
1: RER A線 Bry-sur-Marne駅
2: ジオラマのあるサン・ジェルヴェ・サン・プロテ教会
3: ダゲール屋敷跡
4: ダゲールのアトリエ跡
5: ブリ・シュル・マルヌ市役所
6: ダゲールの墓(Division1, N°86)
7: ダゲール胸像(表紙)
パリからBry-sur-MarneへはRER A線で(Châletet-Les-Halles駅から約20分)。
ダゲールのジオラマDiorama de Daguerre : Eglise Saint Gervais-Saint Protais
4 Grande rue Charles de Gaulle 94360 Bry-sur-Marne
教会の開館時間内に自由見学。ミサや結婚式がある時は、終わるのを待たないといけません。ミサは(朝)週日8h45/日10h30 – (夜)週日19h/土18h30)。
パリのジオラマ、ブリのジオラマ。
焼失したパリのジオラマは、今のレピュブリック広場の北西側、軍の宿舎(カゼルヌ)が建つあたりにあった。劇場前の広場は、当時シャトー・ドー広場と呼ばれ、同名の大きな噴水があった。この噴水はオスマン県知事のパリ改造による広場拡張工事で解体され、1967年にラ・ヴィレットの食肉市場(現在のグランド・アル)の前に移設されています。
ダゲールはパノラマ画だけでなく、劇場の舞台装置や照明も手がけ、観客をバーチャル・リアリティの3D世界へ引き込む術を身につけていた。遠近法と錯視、光と陰の効果的な使い方に加え、場面転換に客席を回転させるなど、さまざまな仕掛けがあったらしい。縦14m、幅が22mという巨大な半透明の麻布キャンバスの表裏両面に描かれた絵は、ダゲール自身と、協力者の画家シャルル・マリ・ブートンによるもの。テーマは、シャルトル大聖堂、カンタベリー大聖堂の礼拝堂などゴシック建築や、ルーアンの街、ブレスト港などの都市風景が多かった。
1831年から2年以上のロングランとなった『シャモニー渓谷からのモンブランの眺め』では、より迫真性を増すために、絵の前にシャモニーから取り寄せた山小屋とモミの木、それにホンモノの山羊を配したという。これが現在の情景模型ジオラマの原型だったのかもしれません。
ブリに居を構えたダゲールにジオラマの製作を依頼したジュヌヴィエーヴ・ド・リニは、王政復古時代の重臣だった叔父の城と農地を管理し、町の中心的な存在だった。
この唯一遺された元祖ジオラマは、数度の戦争を経てすっかり傷み、そのうえ過去の修復でキャンバスの裏側を糊で固めていたため、透過光の効果が失われていた。これを剥がし麻糸を一本一本繕い、絵の具で修復するという作業で170年ぶりに蘇ったのです。
大規模だったパリのジオラマに比べると、高さ5.35m、横6.05mと大きさも半分以下で、人を驚かせる目的で作られてはいない。
現在は人工照明がついているけれど、当時のジオラマ上部はガラス屋根だった。ダゲールはおそらく、ここが教会の内陣という厳粛な場であることを意識し、朝から日暮れまでの光の方向や明るさの自然な変化で演出しようとしたのではないだろうか。
ダゲールとダゲレオタイプ。
ダゲールは、当時の画家の多くがそうだったように、パノラマ画を描くためにカメラ・オブスキュラ(シャンブル・ノワール=暗箱)を利用していた。
ジオラマの装置でも光学的な技術を使っていた彼は、1824年ごろから劇場の隣にあったアトリエで写真の研究を始めます。
ニセフォール・ニエプスが24年にカメラ・オブスキュラの画像を固定するヘリオグラフィを開発して、世界最初の写真撮影に成功する。ダゲールはシャロン・シュル・ソーヌのニエプスと情報交換し、29年には共同研究する契約を結んでいる。ニエプスが死んだ33年以後もダゲールは研究を続け、1839年にダゲレオタイプを完成させた。
ヘリオグラフィでは8時間もかかった露光時間が、ダゲレオタイプの最初のモデルで10〜20分、改良型は数秒に短縮されたことで、初めて肖像写真が可能になったのです。
科学者で政治家でもあったフランソワ・アラゴは、ダゲールからこの発明を聞き、ダゲレオタイプの特許権を国に委譲した上で世界に公開することにした。39年8月、アラゴが学士院での公開講演でダゲレオタイプの発明を発表、ダゲールとニエプスの遺族には、多額の年金が支給されることになった。
ダゲレオタイプの特徴は、銀メッキした銅版などに定着したポジティヴ画像が得られることだけれど、その像が左右逆の鏡像だという点と、複製できないのが欠点。
この時代には他にも画像を定着させる方法が現れていた。イギリスのフォクス・タルボットは、ダゲレオタイプとほぼ同時期に、ネガからポジを作る、つまり複製可能なカロタイプを発明している。
しかし、タルボットが高額な特許使用料を主張していたのに対し、特許を公開していたダゲレオタイプは、その使いやすさと精度の高い鮮明な画像が得られたこともあって、急速にヨーロッパやアメリカに普及したのでした。
ダゲールは、今まで見えなかった世界を可視化させることへの探究心と才能、そして強力な協力者に恵まれた人でした。