Chana Orloff – Sculpter l’époque
生前は高く評価されていたが、死後かえりみられなくなった女性造形作家が再評価され始めた動きの中に、シャナ・オルロフ(1888-1968)もいる。1920−40年代、美術評論には彼女の名前が頻繁に出ていた。モンパルナスに集った「エコール・ド・パリ」と呼ばれる外国人アーティストの中でも最も評価が高いアーティストの一人だった。
この時代を網羅したプチパレで開催中の「1905-1925年 モダニズムのパリ」展にも彼女の作品が出ているが、この展覧会では、近代のパリを彩った芸術家の一人にすぎない。もとより1971年以来、彼女の個展はなかったというから、それ以降、オルロフのことを知る機会は限られていた。その空白を埋めるかのようにザッキン美術館で展覧会が開催されている。彼女と同じく旧ロシア帝国領出身で同い年のユダヤ人彫刻家、オシップ・ザッキンのアトリエを改装した美術館で、オルロフが活動していた時代の雰囲気を再現するには絶好の会場だ。
シャナ・オルロフは、現ウクライナ南部・ザポリージャ州であるロシア帝国領の村で、ユダヤ人家庭の9人兄弟姉妹の8番目として生まれた。10代の頃、自活できるよう、一番近い都市のマリウポリで裁縫の授業を受けた。マリウポリは、2022年のロシアによるウクライナ侵攻で大打撃を受け、現在はロシアの支配下にある都市だ。オルロフが生まれた村も、今はロシアの支配下にある。オルロフ一家は、ユダヤ人への迫害が激しくなったので、彼女が17歳の時、オスマン帝国の一部だったパレスチナに移住した。
パレスチナ在住の5年間に婦人服の仕立てで客がつき、女学校で裁縫を教えてほしいと頼まれるほどになった。教えるためには資格が必要だが、パレスチナには裁縫の免状を出す学校がなかった。そこで、家族の了承のもと、服飾の資格を取るために22歳の時にパリに出た。これが人生の転機となった。デザイン画を学んだとき、デッサンの才能を見抜いた教師から絵をやるように勧められて、国立装飾美術学校の女子部に入学した。
すでにオルロフの関心は服飾よりも美術に傾いており、ロシア人アーティスト、マリー・ヴァシリエフが無料で教えていたモンパルナスのロシア・アカデミーでも彫刻とデッサンを学んだ。モンパルナスにたむろする芸術家たちと知り合ったのはこの頃で、ユダヤ系のシャガール、スーティン、モディリアーニらと親交を結んだ。
しかし、彫刻家デビューは厳しかった。同世代の画家でキュビズムに傾倒していたアンドレ・ロートからキュビズムをやれというプレッシャーを受けたが、跳ねのけたため、芸術家仲間からそっぽを向かれた。それでも展覧会は好評で、作品は売れた。ゆるやかな曲線で作られた人物像は、モデルに似ていてもオルロフの個性が強く感じられる。その一つ、「ナディーヌの肖像」は、頭が大きく足が短い、子どもの体型を強調しており、膨らんだほっぺたが愛らしさを出している。
1923年のサロン・ドートンヌで評判をとった「ダンサー」は、体の重心を移動させて情熱的に踊る2人の男女を彫った。「狂乱の時代」と呼ばれた1920年代にダンスホールで踊り狂った人々の感情が伝わるような作品だ。
祖母が助産婦だったので、妊娠と出産は幼い頃からオルロフの身近にあり、「母と子」は一生を通じてのテーマになった。子は、イエスのように理想化された子どもではなく、頭の大きい幼児の体型で、母の胸にしがみついている。結婚後3年で夫に先立たれ、母一人子一人で、息子を大切に育てたことも影響しているようだ。オルロフが作った子の顔には息子の面影があると言われる。
1926年にはフランス国籍を取得。パリ14区に、建築家オーギュスト・ペレにアトリエ兼住居を建ててもらった。1920-30年代は、米国、オランダ、英国などでも展覧会を開催し、国際的な名声を得た。この頃が彼女が絶好調だった時代かもしれない。
第二次世界大戦中は、大規模なユダヤ人逮捕をまぬがれて、独軍非占領地域であるグルノーブルに、その後グルノーブルも危険になってスイスに逃れた。パリ開放後に戻ると、アトリエは荒廃し、作品は略奪されていた。1945年に制作した「帰還」は、それまでの洗練された造形とは異なる荒削りの作品だ。うつむき加減の男性が考え込んでいる。ブッシェンヴァルト強制収容所から帰還した人の顔からインスピレーションを受けたというが、アトリエに「帰還」してゼロから再出発をしなければならない彼女自身を投影しているかのようだ。
戦争で受けた物質的、心理的な傷に負けず、精力的に活動し、戦前にも増して国際的な彫刻家になった。特に1948年のイスラエル独立宣言以降、この第二の故郷にモニュメントを建てたり、初代首相ダヴィッド・ベン=グリオンなど著名人の彫像を作り、国との関わりを深めた。1968年、テルアビブ美術館で大回顧展の準備中に急死し、イスラエルに埋葬された。
オルロフの生まれ故郷と第二の故郷は、現在、ロシアに侵攻されて破壊された地域と、パレスチナ・ガザ地区を攻撃する国になっている。それだけではない。2023年10月のハマスの襲撃で、キブツにいたオルロフの姪(または甥、性別不明)の夫が殺され、その家族7人が人質となった。11月に姪を含む6人が解放されたが、まだ1人は人質となったままだ。こうしたことを思うと複雑な気持ちになる。シャナ・オルロフ展が3年前に開催されていたら、こんなことは考えもしなかっただろう。芸術と戦争は、思いがけない時に、思いがけない形で結びつく。
第二次世界大戦中にアトリエから略奪された彫刻は140点に上った。そのうちの1点が2008年にニューヨークで競売にかけられ、15年の交渉の末、2023年にようやくオルロフの孫たちに返還された。この一人息子ディディの肖像とその返還までの経緯が、パリ・マレ地区のユダヤ歴史美術館(下に情報記載)で、9月29日まで展示されている。羽) 3月31日まで
★シャナ・オルロフ、別の展覧会が開催中!
L’Enfant Didi, itinéraire d’une œuvre spoliée de Chana Orloff, 1921-2023 」展
1921〜 2023年 シャナ・オルロフの略奪された作品「こどもディディ」の返還までの経緯 9/29まで
Musée d’Art et d’Histoire du Judaisme – Hôtel de Saint-Aignan
71, rue du Temple 3e Paris
10/7ユーロ、無料:18歳未満など。インターネット予約要
https://www.mahj.org/fr
開館時間が変わるのでご注意。
☞ 5/12まで
月休、火木金 : 11h-18h、水 : 11 h-21h、土日 : 10h-19h
☞ 5/14-9/25
火水木金 : 11h-18h、土日 : 10h-19h
閉館45分前までに入館
★シャナ・オルロフのアトリエ美術館 が見学できる!
Ateliers-Musée Chana Orloff
7 bis villa Seurat, 14e
金土日に2回訪問枠あり 予約要
15/10€ ユダヤ歴史美術館の切符提示で無料
https://www.chana-orloff.org
Musée Zadkine
Adresse : 100 bis rue d’Assas , 75006 Paris , FranceTEL : 01 55 42 77 20
アクセス : Notre-Dame des Champs (12号線)、Vavin (4号線) 、Port-Royal(RER B)
URL : https://zadkine.paris.fr/
火―日、10-18h。9€/7€、パリ・ミュゼカード保持者、18歳未満、障がい者と付き添い1人など無料