初日から雨模様が続いたカンヌも、今は「コート・ダジュール(紺碧海岸)」の名にふさわしい爽やかな青空が広がっています。とはいえ、気温は例年より肌寒く感じる年です。
今年のカンヌのコンペティション作品の中で、上映前から大きな注目を集めたのが、フランシス・フォード・コッポラの新作『Megalopolis メガロポリス』。自慢のワイナリーを投げ売って莫大な制作費(1億2千万ドル)に充てたことでも話題の大作です。コッポラはカンヌでは『カンバセーション…盗聴…』(1974年)と『地獄の黙示録』(1979年)で、2度の最高賞に輝いた数少ないレジェンドのひとり。その反面、『テトロ 過去を殺した男』(2009年)では別組織が運営する〈監督週間〉に追いやられるなど、カンヌといつも蜜月だったわけではありません。アメリカと深い関係を再構築したいカンヌは、85歳の巨匠の話題作を、大手を広げ迎え入れました。
映画はニューヨークを思わせる近未来都市「ニューローマ」を舞台に、メガロポリスの再生をかけ、愛と陰謀が駆け巡るSF仕立ての寓話。アダム・ドライバーが持続可能なユートピア風都市の建設を企てる建築家に扮します。この世界をより良くするのは政治家よりも芸術家、という芸術家讃歌のドラマでもありました。
5月17日、コッポラは孫娘二人(娘ソフィア・コッポラの二人の娘か)と仲良く手を繋いで会見会場に入場し「『地獄の黙示録』の時、(娘の)ソフィアは私の肩の上にいたよ」と話を始めました。とにかくファミリー感が強いチームです。このコッポラ家のお嬢さんたちも、10年後くらいには監督としてカンヌに戻ってきそうです。監督は今の気持ちを聞かれ、「一言で言えないが安堵と喜び。諦めては着手してきました。今は良い気分」とご満悦の様子です。
本作のアイデアは『地獄の黙示録』撮影時からあり、45年以上温められてきたもの。とはいえ、まるで2024年の完成を待っていたかのように、物語は今こそ直接響くものでした。
「ずいぶん前から私は現代のアメリカを舞台にしたローマ叙事詩を作りたいと言ってきました。なぜなら、アメリカは、古代ローマ共和国の考えに基づき作られたからです。しかし、実際にこれほど私たちの時代と重なるとは想像もできませんでした。アメリカと、私たちのデモクラシーの中で起きていることは、古代ローマの共和制が崩壊したのと完全に対応しています」。
監督によると、現在はファシストや極右を浮上させる傾向があり、芸術家こそが、それを指し示すことができると言います。また劇中では時間を止める描写が何度か描かれます。できることなら時間を止めてでも、世界をより良くしたい、そしてそれを可能にするのは芸術家。“時間の芸術”でもある映画の力、芸術の力を信じている監督の思いも重ねられているようです。
そんなコッポラですが、自身の作品の完成形には並々ならぬこだわりが。プロデューサーの発言力が強いアメリカにいながら、これまでディレクターズ・カット版を何度も発表したことで知られています。しかも、自身が作るワインの名前も「ディレクターズ・カット」!会場からも本作の再編集の可能性に質問が飛んだところ……。「私は時々再編集をします。だって、それが好きだからです。ダヴィンチがカトリーヌ・ド・メディシスとフランスに来た時、40枚もの絵画は全て未完成でした。国に贈ったモナリザもそうでした」ここですかさずダヴィンチの名前を例に出すとは、さすが比喩のスケールが違うと感じます。誰にでも言えることではないでしょう。
映画は目下、賛否両論の渦。どちらかいうと否定派が多いかもしれません。「醜い」とか「理解不能」という声もちらほら。ちなみに筆者は肯定派。これからの若い世代のために、理想主義的なことをバカ正直に訴える巨匠の一途さを応援したいと思った次第。キッチュでベタな演出に拒否反応を起こす人は多そうですが、現代の欲まみれの人間の世界がそもそも醜いので、それはしょうがないかなとも思うのです。
上映中には、壇上にカメラマンらしき生身の人間が登場するという謎の演出が。突然で呆気に取られた会場ですが、最後には拍手が湧いたというひと幕でした。しかし、一般の劇場公開の時はどうするのでしょうね。そのような驚きの映画的冒険も含め、コンペ前半戦の作品の中では群を抜くエネルギーの噴出があり、見ているこちらも元気を補給できました。(瑞)