バルビゾンは、美術の教科書でミレー(1814 – 1875)の「晩鐘」に触れた人にとって、一度は行ってみたい場所ではないだろうか。フォンテーヌブローの森の端のほう、19世紀「バルビゾン派」の画家たち集った村だ。
直行の公共交通機関がなく、パリから電車とタクシーを乗り継いで行くしかないのが欠点だが、一度は行ってみる価値がある。なぜなら、画家たちの生活の場と作品を同時に見ることで、彼らの息遣いを感じ、バルビゾンについて漠然と思い描いていたイメージが、より鮮明なものになるからだ。
村には3つの美術館がある。「セーヌ・エ・マルヌ県立バルビゾン派美術館」は離れた場所にある2つの建物(「ガンヌ旅籠」と「テオドール・ルソーのアトリエ兼住居」)で構成されている。ガンヌ旅籠ではバルビゾン派の作品を常時展示しているが、テオドール・ルソーのアトリエ兼住居は特別展用で、展覧会のある時しか開館していない。もう一つはミレーのアトリエ兼住居だった「ジャン=フランソワ・ミレー記念館」だ。
画家たちの常宿だったガンヌ旅籠
ガンヌ旅籠は1995年に美術館になったが、元は画家たちに食事と宿を提供していた旅籠だった。仕立て職人のフランソワと食料品店を営んでいた妻エドメのガンヌ夫妻が経営者で、初めのうちはパリからやってきた画家たちに食べ物を販売していたが、1834年に旅籠に改装した。バルビゾンは当時300人ほどの集落だった。
画家たちはなぜバルビゾンに来るようになったのか。19世紀前半当時、絵画のジャンルには格付けがなされていた。歴史画が最高位。風景画は5つのジャンルのうち4番目と低いランクで、しかも理想化した風景を描くことが常識だった。これに疑問を持ち、自然の中で風景を描くことを考えていた若者たちが1824年、パリの官展(ル・サロン)で英国のジョン・コンスタブルの風景画を見て驚いた。自分たちが考えていたことが既に英国で実践されていたこと知り、この方向に進むことを確信したのだった。
フォンテーヌブローの森はパリから約70キロメートル。起伏に富んだ2万2000ヘクタールの広大な森にはさまざまな動植物がおり、生物多様性の宝庫だった。ガンヌ夫妻が開業するまでバルビゾンに宿屋はなく、画家たちは2キロメートル北のシャイィー・アン・ビエールの宿に滞在していた。1849年には近くのムランに駅ができたため、ムランから9キロメートル歩いてバルビゾンに来ることが容易になった。
旅籠での画家たちの生活
ガンヌ旅籠は2階建てで、1階がチーズやコーヒーなどの食品売り場、軍人用食堂、画家用食堂。2階には夫婦用の部屋とベッド数台の大部屋があった。軍人が昼食に来ることが多かったが、気質が異なる画家たちと食堂は別にした。軍人用の食堂がブルジョワ風の立派な体裁であるのに比べ、画家用の食堂は簡素な内装だ。どちらの食堂にも、画家たちが装飾を施した家具や絵がある。2階の寝室の壁には、背中に画材を背負って歩く画家の姿などが残っており、これらを見ると200年前の当時にタイムスリップしたような錯覚に陥る。画家たちは、エドメが準備した弁当を持って朝から森に出かけ、夜はピアノに合わせて皆で歌い踊り、酒盛りと芸術談義で盛り上がった。
印象派への道を作ったバルビゾン派
ガンヌ旅籠の2階には画家たち作品が展示されている。風景画、人物画、動物画とバルビゾン派の全てをコンパクトに見ることができる。
「バルビゾン派は印象派が出現するための道を作った」と言うのは、セーヌ・エ・マルヌ県の文化担当者、ドニーズ・ドロベルさんだ。1841年に米国人画家が発明した絵の具チューブはフランスでも製造が始まり、絵の具の持ち運びが可能になった。バルビゾンの画家たちは戸外で習作を描くのにチューブの油絵具を使った。「戸外制作」は、印象派の画家たちに受け継がれた。
では、バルビゾン派と印象派はどこが違うのだろうか。この美術館でバルビゾンの画家たちの作品を大量に見ているうちに、印象派と決定的な違いがあることに気づいた。バルビゾン派の風景画には、遠くから、あるいは高みから見下ろし、人や動物が小さく描かれた、どうしたらこのような視点に立てるのかと不思議に思える構図が多々ある。17世紀にイタリアで活動した古典主義の画家、クロード・ロランの風景画に通じる構図だ。それに比べ、印象派の風景はカメラ視線で、視野がそれほど広くない。バルビゾン派は戸外で描き始めたとはいえ、古典主義を引きずっていたようだ。
この傾向には個人差があり、ミレー(1814-1875)やテオドール・ルソー(1812-1867)より20歳近く年上のジャン=バチスト=カミーユ・コロー(1796-1875)により顕著だ。バルビゾン派の大御所とはいえ、コローはガンヌ旅籠に滞在したことはなく、世代も上だ。それだけを捉えると、コローは印象派から遠いところにいるように見えるかもしれないが、印象派のベルト・モリゾ(1841-1895)に戸外で描くことを教えたのはコローだった。マルモッタン美術館で開催中の「ジュリー・マネ展」では、コローが描いたチボリ風景と、20年後にそれを模写したモリゾの絵を並べて展示し、師弟関係の強さに言及している。モリゾの両親は、夏の間、コロー宅の近くに家を借りて、娘が教えを受けられるようにしたという。
パリのクストディア財団で開催中の「モチーフについて」展にはバルビゾン派の作品が複数出ている。コローのパレットが、驚くほど筆先が短い筆と一緒に展示されている。制作の一端が垣間見える、貴重な展示品だ。
ジュリー・マネ展も「モチーフについて」展も、バルビゾン訪問と合わせておすすめしたい(情報以下参照)。
コレラを避けてやってきたバルビゾンがついのすみかに(ミレーの場合)
バルビゾン派の時代は1820〜30年頃から1870年代までと言われている。テオドール・ルソーと並んでバルビゾンの巨匠とされるジャン・フランソワ・ミレーが来たのは1949年と比較的遅かった。この時ミレーは既に名のある画家だった。バルビゾンに来たのは、コレラが蔓延していたパリから避難するためだった。そのバルビゾンで農民を描く画家としてさらに名声が上がったのだから、「災い転じて福となる」という諺そのものの人生だった。3週間の予定で来たが、ガンヌ旅籠の近くに家を借りて、1875年に亡くなるまでその家で過ごした。廊下がなく、一つの部屋を通らなければ別の部屋に行けない造りで、入って最初の部屋がアトリエだった。食堂と台所がそれに続く。今は「ミレー記念館」として公開されている。筆者が訪問した12月、ミレーの大きな人物画が架けられていた。日本の美術館が購入したという。近々送付されるが、残念ながら、美術館の名前は教えてもらえなかった。
村の目抜き通りを端まで行くと、フォンテーヌブローの入り口が見える。バルビゾン派が描いた通りの風景が今もそっくり残っている。暖かくなったら、美術館を見学し、洒落たカフェで一休みした後、森を散策してみたい。ガンヌ旅籠の売店では、パリの老舗の絵の具メーカー「セヌリエ」のグワッシュ(不透明水彩)を売っている。それを買って森で描くのも一興だ(筆、パレット、紙は自分で用意してください)。(羽)
県立バルビゾン派美術館
Musée départemental des Peintres de Barbizon
https://www.musee-peintres-barbizon.fr/fr
tél 01 60 66 22 27
入館料6€ 開館日水〜月10:00-12:30 14:00-17:30 7〜8月は18:00まで
ガンヌ旅籠
Auberge Ganne
92 Grand rue 77630 Barbizon
テオドール・ルソーのアトリエ兼住居
Maison-atelier de Théodore Rousseau
55 Grand rue 77630 Barbizon
ミレー記念館
Maison-atelier de Jean-François Millet
27 Grand rue 77630 Barbizon
http://www.musee-millet.com
tél 01 60 66 21 55
入館料5€ 開館日4〜10月:水〜月 11〜3月:木〜月 10:00-11:30 14:00-18:00
クストディア財団「モチーフについて 1780−1870年の屋外制作画」
Fondation Custodia « Peintre en plein air 1780-1870 Sur le motif »
121 rue de Lille 7e
10€ 4月9日まで 火〜日10 :00-18 :00
https://www.fondationcustodia.fr
Musée départemental des Peintres de Barbizon
Adresse : 92 Grand rue , 77630 Barbizon , FranceTEL : 01 60 66 22 27
URL : https://www.musee-peintres-barbizon.fr/fr
SNCFでパリ・リヨン駅(Gare de Lyon)からムラン(Melun)まで26分、RERなら同区間1時間。ムランからタクシーでバルビゾンまで、朝10時頃までと18時以降は片道50€、日中は片道35€。 タクシー会社 Taxi Bellifontain 01 89 06 61 35