昨年のベルリン映画祭金熊賞は、ダークホースの『Sur l’Adamant アダマン号に乗って』!フランスのドキュメンタリーの巨匠ニコラ・フィリベールが、セーヌに浮かぶ船上のデイケア施設を描いた作品だった。当初より精神医学と患者の世界を描く三部作になると発表されていたが、早くもその2作目が、先月のベルリンでお披露目、そして今月には劇場公開へ。タイトルは『Averroès et Rosa Parks』。わかりにくいタイトルだが、あのマルキ・ド・サドも入院し余生を送ったパリ郊外の精神科専門病院内の二つの病棟の名前だとか。
前作『アダマン号に乗って』のカメラは、施設内を自由自在に動いていたのに対し、今回は患者の一人語り、あるいは患者と精神科医や他の患者との対話に集中。その分、患者の微妙な心の動きや、その思考回路を深く辿ることになった。
病院と信頼関係を築いた上での撮影だから、出演者たちはかなりざっくばらんで饒舌だ。しかし、突然遠くから叫び声が聞こえたりすると、やはりここは精神病の病棟なのだと、現実に引き戻されたりもする。入院や投薬に不安を訴える人、自傷行為や焼身自殺の経験を語る人。中でも強烈な印象を放つのはバーンアウトした元哲学教師の男性。彼の波瀾万丈な身の上話は、身を乗り出してしまうほどに面白い。筆者は本作を映画祭で見たが、この男性が理想の教育像について語った後は、会場が大きな賞賛の拍手に包まれた。また、ブラックロックの世界支配などについても語っていたが、その意見は至極真っ当に思えたのも印象に残った。
いずれにしても別室からの叫び声など、監督が意図しないところまで映ってしまうのがドキュメンタリー、いや、映画の良いところ。本作も社会矛盾や病院の問題も透けて見えるが、監督は何かを訴えたいということではないようだ。しかし、尊敬される巨匠の立ち位置は守りながらも、考えるヒントは置いてくれた。「これはある意味で、消えつつある “聞くこと”についての映画。なぜなら最近は誰もが話すばかりで、聞く人がほとんどいないからです」とは監督の弁。2時間23分、様々な思いを喚起させる患者たちの言葉に耳を傾けてみよう。
さて、1978年のデビュー以来、精力的に活躍を続けるフィリベール監督だが、パリのシネマテークでは3月18日からレトロスペクティブが開催。ろうあ学校の記録『音のない世界で』、田舎の小学校を描く『ぼくの好きな先生』、長寿オランウータンに対峙する『Nénette』など、代表作から知られざる名作まで一挙公開。彼の共同監督の長編デビュー作が、大企業家たちのインタビュー『La Voix de son maître』だったというのは意外だろう。この映画は首相の横やりでテレビ放映が中止になったという曰くつきだから興味をそそる。フィリベールはこの経験に懲りたのか、その後は権力者には背を向け、もっぱら社会の陰に隠れた人々の言葉を可視化するような作品に取り組んできた。彼こそ、“聞くこと”の名人だろう。そして驚くなかれ、三部作の最終章もすでに完成し待機中だとか。『La Machine à écrire et autres sources de tracas』のタイトルで来月4月17日に公開予定だ。(瑞)
● シネマテークでのレトロスペクティヴ
Rétrospective Nicolas Philibert (3月18日から31日迄)
https://www.cinematheque.fr/cycle/nicolas-philibert-1218.htmlv