モーパッサンの代表作のひとつである『ベラミ』(1885年) の主人公デュロワは、目的のためには手段を選ばない男として描かれている。旧友フォレスティエのつてで新聞社の仕事を見つけたデュロワは、フォレスティエの妻で知性あふれるマドレーヌの文才を利用して出世街道をのしあがる。そして、フォレスティエが病死した後にはマドレーヌを妻として迎えるに飽き足らず、さらに新聞社の社長の妻、そしてその娘までを誘惑し、富や権力など、若い時に夢見ていた栄光をすべて手に入れていく。
スピード感のある小説は読んでいて楽しいものの、この、あきれるほど自己中心的で冷たい人物に共感を抱くのは難しい。そんな中にあって、 「デュロワも人の子」と少しほっとさせてくれるのが、両親が居酒屋を営んでいるノルマンディーへ寄せる郷愁の想いだ。がやがやしたパリの大通り、優雅なレストランや美しい邸宅、愛人と過ごすためだけに借りている部屋の中にあって、デュロワは田舎にたたずむ質素な家と、年老いた両親を忘れることはない。「故郷の家の真黒にすすけた台所が、がらんとした酒場の奥に続いている台所が、浮かんだ。壁際に並んで黄色い光を放っている鍋、うずくまったキメラ(獅子頭の伝説獣)の姿勢で、鼻面を火の方に向けている。時代がついたのと汁物がこぼれるので、脂切ってぎらぎらしている木のテーブル、真中にスープ鍋が一つ湯気を立てており、二枚の皿の間に蝋燭が一本燃えている。それからまた二人の姿が、男と女の姿が、父と母の姿が、見えた。」(杉 捷夫 訳)
故郷の食風景を知り尽くしているデュロワとは対照的に、老夫婦は、パリの晩餐がどんなものか想像することさえせず、食べ慣れたスープを淡々と口に運ぶ。(さ)